底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

尊厳は幻想を守るための壁

尊厳

人の尊厳はどこにあるのか。それは能動的には、自分に関することを自分の意志の元に決定できるというところにある。自分の気持ちや考えを決して無視されたり踏みにじられたりせず、耳を傾け尊重される環境のことを人は幸福と呼ぶのである。受動的には自分の普段の生活を侵害されないところである。昨日送ることのできた平穏な暮らしを今日も変わらずに送ることができる。それがとても大切である。つまりは自分が決めた自分のことはそのまま実現され、自分が決めていない自分のことに関しても自分以外に勝手に口出しされたり変更されずに、自分にかかわる全て--決めるか決めないかの選択も含めて--を自分自身で決めていける、自分自身だけに決定権がある状態が、即ち自分の尊厳が保たれているというそのことなのである。




自由

…と長ったらしく書いたけれど簡単に一言にまとめるなら、要するに自分に関する自由が自分に与えられていることがとても大切なのだ。その自由が奪われれば奪われるほど、人の精神はボロボロになっていくだろう。何のために生きているのか分からなくなり、人生そのものが虚しさと苦しみで埋め尽くされていくに違いない。逆に自由が確保されていればいるほど、人は幸福を感じやすいはずだ。自分の望むとおりの自分をそのまま生きられるのだから、当然のことである。




信仰

なぜその自由が尊厳であるのかと言えば、人は何よりも人格に自分自身の存在を認めいるからだ。この名前でこの顔でこの性格でこの価値観であるところの存在がつまりは自分自身なのだと強く信じているのである。そう、これは信仰なのだ。事実ではない。人格とは上に列挙したような諸性質を束ねた存在とされているが、そんなものが本当に自分であるわけはないのである。それらの諸性質を総とっかえしたところで自分が依然自分であるのは自明であるのだから。自分の存在は諸性質によってではなく、気づいたらなぜだか存在していたという純粋な謎に支えられて今ここにあるのである。




今日の記事書くのめっちゃ苦労した…もう朝やん…

信仰だからこそ、自由が必要なのだ。それは他でもない自分自身「の」人格をでっち上げていくためのスペースなのである。幻想を現実にする一番簡単な方法は、実際にそれがあるフリをしながら生きることである。この場合のフリとはつまり「決める」という行為なのだ。そのために、それは絶対に犯してははならない人の尊厳となって、幻想を守るための壁として聳え立つのである。その壁を越えられたら最後、中には実は何もないのだと知られてしまうことが何よりも恐ろしいのだ。