底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

後悔と未練のない死を迎えるには

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後悔のない死と未練のない死を迎えるには、それぞれ方法がある。どちらも同じことで即ち、それらの余地を潰すのである。後悔のない死の場合は、自分が生まれたことに焦点を当てることで、全てを偶然とし、どんな選択もその偶然の産物に過ぎないと捉えて、自分自身の自由を放棄してしまうことだ。そうすれば選択というものがそもそもないので、当然後悔する余地も生まれ得ない。或いは後悔するにしても、それは偶然の産物に過ぎないのだから、その後悔に対して後悔する余地はやはりなくなる。未練のない死の場合は、現に存在している自分に着目し、仮に全てが偶然なのだとしても、現に存在している自分だけは、全ての偶然を認識する側にいるのだから、その事実を踏まえて、完全に自由な選択をすることができるとして、己の最善を尽くしてしまうことだ。そうすればそれ以上の結果などなかったとはっきり分かるのだから、未練が残る余地も当然なくなる。要するに両者は「そもそも自分には選択などできなかった」と「自分にはこれを選ぶしかなかった」という言い方の違いだけであり、本質はどちらも同じである。

 

 

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しかし、これはどちらも失敗に終わる。なぜなら人には自身の全てを偶然と捉えることも、自身には完全な自由があると捉えることも、およそ不可能だからである。全てを偶然とした上でも、自分はもっと上手くやれたはずだとの思いがありありと生じることを止められず、全てを自由とした上でも、あの偶然さえなければもっと良い結果になったはずだとの切実な妄想をやめられない。どちらにしても依然、後悔と未練の余地は残り続ける。

 

 

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とすると、最後に砦になるのは覚悟とか決心とかの、現実的にどうこうするというよりも、自分自身の中でうまく折り合いをつける方向のものになってくる。それらは端的に言ってしまえば気の持ちようなので、自分ができたと思えばできるのだし、できないと思えば永遠にできない。だけど、できたと割り切れるのは正直人間業ではない。本当にできたのか?と問われて、本当だと一片の曇りなく断言し得るとしたら、それは何かが見えていないだけなのだと思う。だから、真のの最後の砦は、そんなことはできない、後悔や未練は必ず残るという形での覚悟と、そのことを加味した上での決意である。つまりは再び偶然と自由との戦いに帰ってくるのだ。全ては偶然なのだと切り捨てる努力をしながら、その偶然の全てを受け入れた選択をすることに励み、同時にそのどちらも不可能なのだとする諦念も抱きながら生きていくのである。

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