底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

キモいのはお互い様

自分は綺麗事をきちんと実践しているという人は今すぐブラウザバック

人間というのは綺麗な存在ではない。うーん主語がデカイな。綺麗じゃない人の方が多いくらいにしておこう。いやこれでも角が立つな。綺麗じゃない人もいるにしよう。ここでの綺麗とは綺麗事の意味だ。世の中綺麗事と言われているようなことをきちんと実践できている人ばかりではないはずだ。だからこそ綺麗事なんて言葉がわざわざあるのであろう。他人がそのことによって嫌な思いをすると知りながら、ついつい自分の利益や欲を優先させてしまったり、他人が不幸になることで自分が幸福になるなんてことはないと知りながら、ついついそれに歓喜してしまったり、他人は何も悪いことをしていないと知りながら、しかし自分は嫌いだからというだけの理由で相手を邪険に扱ってしまったり。みんな少しくらいは心当たりがあるのではないか。

 

 

綺麗じゃなさ

そういう綺麗じゃなさは消せるものではない。それこそが自分という存在をつくりあげ、自分という存在を生かしていたりするからだ。つまりそれが個として世の中に存続するそのことなのである。個として存続するにはある程度他人を無下にするのでなければならない。なぜなら、言うまでもなく誰にとっても自分(たち)は他人よりも大事であるからだ。どんな場面でもいちいち他人を優先していては自分の身が持たないのである。

 

 

キモさ

綺麗じゃなさは少し回りくどいのでここら辺で端的にキモさと言い換えてしまおう。世の中ではキモさはほぼほぼひた隠しにされている。それは多分人間の美意識の問題である。公に見せるものではないと皆が弁えているのだろう。だがいくら隠したところで、それ自体が消えてなくなるということはない。人間として生きる限り、キモさはずっと自分について回る他ないものだ。思うに隠すことしかしてこなかった我々は、このキモさを不意に他人から感じとった時の対処法をまだよく知らないのではないか。多くの場合に、ただ不快に感じてはそこから反射的に愚痴を言ってみたり、怒りに任せて謝罪を求めたりと極めて受動的な態度しか持ち合わせていないように見受けられる。

 

 

みんなみんなキモい

自分が一番大事なのだから、その一番大事な自分が他人のキモさの被害に遭えば許せないのは当然である。だが自分も必ずどこかでキモさを撒き散らしている。それは得てしてお互い様である。自分にもキモさがあるのに他人のキモさだけを非難するなら、それも一つのキモさである。もし自分だけキモくない体でそうしているのならキモいことをした他人よりも更にキモいと言える。結局みんなみんなキモいのだ。他人のキモさを許すことができない我々はせめてその自分のキモさを認めるくらいはしていくべきではないだろうか。

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