底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分のありありとした現実から思考をスタートさせる

思考の意味

人に考える能力があるのは何故なのか、それは生物的に見るなら、目の前の難所をどうにかこうにか攻略するためだろうと思う。今死なないために何ができるのかと的確に判断する必要に迫られて考える能力が生まれたのではないか。知らんけど。今から言いたいことを言うために想像しただけである。つまりは人の思考は地に足をつけないとダメだなと私的には思うのだ。今自分が現に抱えている問題から思考をスタートしなくてはいけない。そうしないと何もかもが浮ついていて、思考の意味が見いだせなくなってしまう。

 

 

なんのための思考

思考を問題解決のために使わなくてはいけないという単純な話。なんとなく思考した方が良さそう、ともかく思考するべきだ、なんでもちいからとりあえず一旦考えてみよう、では思考は得てして迷子になる。スタートが地上からではないために、色々ぷかぷかしているだけで、どこに向かえばいいのかも分からない。「なんのために」が抜けている思考は言わずもがな、なんの役ににも立たないのである。思考から必要性を剥がしてはいけない。自身のありありとした現実からでしか人は徹底的に思考することができないのだ。

 

 

満足感は敵

思考は必要性がないのなら端的にしなくてもよいものだ。思考それ自体に価値があるのではない。問題解決に向かえるからこそ思考は価値になり得るのである。思考という行為の謎の満足感にそのまま浸っていてはいけない。満足な感じがあるだけで多くは意味がないからだ。柔軟に色々発想を飛ばして考える。これはいいことである。だが、それは前提としてあくまで一つの目的のためにあるからいいのだ。点を繋げる線がないのなら、点は点のままでしかない。

 

 

思考の輪を段々と広げる

自分の目の前にある問題は大抵簡単には解決しない。当たり前だ。だからこそ問題になるのだから。その問題をきちんと解決したいと思ったのならきっとたくさんたくさん思考をしなくてはいけない。そこから広がる思考の輪にこそ意味がある。輪っかを広げないで、ただあちらこちらに思考を散らしても、それは散らかった思考の欠片に過ぎない。それらにまで輪っかが広がっていないのなら、ただ頭の中にあるゴミと大差はないのである。地に足のついた思考は一歩一歩自分で歩いているので、確かさがある。間違いないという確信を持ちながら道を進んでいくことができるのだ。問題に即しているかが基準となってくれるのでどの方向が前であるのかはもう決まっていて、迷うこともない。あとはそれに沿って少しずつ着実に進んでいくだけである。自分の目下の問題はなんであるか。そこが思考のスタート地点なのだ。

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