底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

いい人は報われてはいけない

いい人とはなんだろうか

いい人が報われるのはいいことであると普通は思う。いい人であるということはきっといいことを沢山してきたのだから、何かいい結果を得てもいいはずだ、いやむしろ得るべきだと思う人は多いだろう。これは人の気持ちから言えば当然である。いい人が無惨な人生を送るところなど、きっと誰も見たくない。いい人には幸せであって欲しい、満足する人生を送ってもらいたい。それが人情というものである。だが、もし本当にそのような社会が実現されたらどうなるだろう。いや、そもそも我々にとっての「いい人」とはなんであろうか。

 

 

いい人の二つの意味

いい人には二つの意味があるのだと思う。誠実であることと、人の役に立つことである。誠実とはつまり行為をする方の心の出発点の話であり、人の役に立つとはつまり行為を受けとる側の心への帰着点の話である。現実ではこの二つは別に噛み合わっていない。誠実にしたことが相手の迷惑であったり、全く不誠実に人の役に立つことはしばしば起きている。我々は誠実であるが人に迷惑ばかりかけてしまう人のことをいい人とは呼ばないが、全く不誠実に人の役に立つ人には端的にいい人というラベルを貼っている。この点から考える時、いい人が報われる社会とはさて素直に良いものであるのだろうか。

 

 

誠実の意味

いいことをするの「いい」とは何かと言えば、必須条件としてはもちろん人の役に立つということだが、それだけでは足りない。自分の欲と重なっていない、もっと言えば欲に大きく反しているということも大事になってくるのである。したいことであるならそれはしたいことをしただけである。結果的に誰かの役に立っったとしても、そこに動機的な「よさ」はない。したくないけれど、相手のためを思ってする、動機的なよさの前提はこれであり、それが我々が普段誠実と呼んでいるものでもある。

 

 

いい人は報われてはいけない

我々に見えるのはいつも結果だけである。だからもしいい人が報われる社会が実現しても、結果を出している方の人ばかりが報われることになるだろう。そして、それは容易に報われるために人の役に立つという倒錯を引き起こすので、純粋に誠実である方の人はますます報われにくくなっていく。誠実ないい人は報われるようにはできていないし、そもそも報われてもいけないのだ。何も見返りがないのに、自分のしたいことでもないのに、ただ善である故に行う。それこそが誠実ないい人の条件だからである。悲しい定めであるので、もしそれをやりたいのなら、覚悟の上でやった方が良いだろう。「いいことをしたのだから、それだけで良い」と飲み込めないのなら、最初から普通の人でいよう。

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