底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分と他人はなぜ価値観が違うのか

価値観が違うのは違う人だからではない

自分と他人はなぜ価値観が違うのだろうか。そりゃ違う人なんだから当たり前だろと思うかもしれないが、全ての他人と一つの価値観も合致しないという人も逆にいないであろう。違う人ではあるけれど、私たちの価値観は同じだったり違っていたりするのである。つまり違う人だから価値観が違っているわけではないのだ。ではその違いを生み出しているのは一体なんなのか。視点?感性?それとも考え方?うーん、どれだろう、分からないが、でもそれなら逆にその違いさえ揃えたのなら全ての人は同じ価値観を持つということなのではないか!?!?




ちなみに私は黒の方が好きですね

例えば、一面が赤色、もう一面が黒色である紙をそれぞれ赤色と黒色しか見えないように二人の人の間に置いたとしたら、もちろん一人は赤色しか見えず、もう一人は黒色しか見えないだろう。この違いを生み出しているのは言わずもがな視点の違いである。もし永遠に片方の色しか見られないのなら二人はきっとどこまでも平行線のままだが、立ち位置を入れ替えたのなら、二人とも「この紙は片面が赤色で片面が黒色だ」という同じ結論に達するに違いない。だがここで片方の人が赤色の方が綺麗ねという感性を持っていて、もう片方はどちらにも平坦な気持ちであるのなら、他の何を同じにしても二人はもう決して同じ思いにはならないだろう。その上で更に、赤色を綺麗という人が、だからこの紙は常に赤色の面が見えるように飾るべきだ、という考え方を持ったのなら、二人の間の違いはますます大きくなる一方である。だが仮に二人の感性を揃えたらどうなるだろうか。それで二人とも必ず赤色の面で飾るべきだという考え方に至るのか、そうとは限らないはずである。赤色を綺麗に思うけれども、別にどんな風に飾ったってどうでもいいというような考えも全然有り得るからだ。




必然ではない

つまり人の価値観が違う原因は大雑把に三段階あるのではないか。そのものに関する視点の偏り、そのものに対する自身の感性、自身の感性に傾いた考え方。そのうち視点の偏りと傾いた考え方は絶対ではない。感性にはそう感じないという選択肢は与えられていないが、視点の偏りと傾いた考え方は十分に変えられる余地がある。もちろん、だからって変えなくてはいけないものではない。ただその偏りと傾きは自覚しておいた方がいいとは思う。他人との無用な争いを避けられるからだ。価値観は確かに「現に」人それぞれであるが、感性以外による価値観が人それぞれであるのは実は「必然ではない」のだ。価値観が違うのはその人と自分が別人だから、というのは時に単なる思考停止かもしれないですね。