底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

そう感じるとそうであるは関係ない

感じるの違いはどこから

個であるところの人間はみんなそれぞれに違う。でもその違いを支えている根幹は人間みんな同じである。心があって、何かを感じる。感じたものは千差万別でも、感じるというその働きは誰しもに共通しているであろう。感じたものが千差万別であるのは、まずは人が個であるからだ。つまりは物理的な位置の異なりによる視点の偏りがある。見えている範囲や角度が違う、よって一つの出来事でも、感じるものが異なってくる。二つ目には、個には性(さが)があるからだ。これは言わばレンズの違いである。それぞれに異なる色の眼鏡をかけているようなものとでも思ってもらえれば分かりやすい。緑色のレンズではすごく綺麗に見えるものも、レンズが赤色だったらそれほど綺麗に感じない可能性が高い。視点と個性、二つが掛け合わさることで人同士に様々な違いが生まれているのである。

 

 

感じるになると人は冷静になれない

人は頭では人と人は全然違うのだと理解できる。だがいざ感じることとなると、得てして冷静ではいられない。自分がそう感じたのだからそうだ、とつい思いがちになるのだ。なぜなら感じるとは不可抗力的なものだから。感じるかどうか、どう感じるか、その両方を人は一切選べない。個人にとってはただそういう事実を一方的に与えられただけなのである。だから、そうではないと言われると、すぐに否定したくなる。だって自分は確かにそう感じたから。そう感じたのは確かでも、それがそう「である」かどうかは別の話だ、と上手く割り切れることができないのだ。そうでないとしたら、自分が確かに感じたのが嘘になってしまうじゃないか。そんなのおかしい。自分は確かに感じんたんだ。どうしてもそう声を上げたくなってしまう。だからこそ、人は自分に近しい感じを持つ人を好む傾向にある。同じように感じる人がいることで、自分が感じているそれは確かに事実であるのだとちゃんと思えるから。自分の感じているそれは正しいと、どこか肯定されている気分になれるのだ。

 

 

感じるに正誤はない

感じることは確かに個人にただ与えられた事実だ。でもそれはあくまで視点と個性を通した後のものだということを忘れてはいけないと思う。そう感じたということから、そうであるは導けない。自分が確かにそう感じたとしても、そうであるかどうかは全く関係ない別の話なのである。だから逆に言えば、そうでないとしても、それは別に自分の感じたものを否定する結論ではない。感じるということに正誤はない。あるのは人それぞれの違いだけである。

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