底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

それは本当に価値観なのか

1

価値観とは事実に対する個人の感性や考えである。それは必ず事実に根差していなければならず、もうしそうでないなら、幻想や妄想の類に含まれるだけである。りんごを美味しいと感じるかまずいと感じるかは個々人の価値観に他ならないが、りんごをトマトだと思いそれをトマトだと呼ぶことは決して個人の価値観などではなく、それはただの世界の誤認か、或いは言葉の誤用である。ここはとても大事な線引きだ。我々は根本的に後者を個人の価値観だと認める術を持たない。無理にそれを認めようとすれば、世界の秩序が崩壊してしまう。

 

 

 

2

自分という個人に対してもこれは同じである。自分のことだからといって、好き勝手に価値観を設けられるわけではない。それはやはり事実に根ざしていなければならない。認めたくない事実が存在するなら、まずその事実を変える他なく、それをすることなしに価値観を主張すれば、結局はただの幻想や妄想と変わらない。いかなる事象においても例外はない。目の前のりんごをトマトと呼びたいのなら、誰しもがトマトだと認められるように、全てを作り替えなくてはいけない。自分が買ったりんごで自分の所有物だからといって、それをトマトだ主張する自由は、自分には認められていないのである。

 

 

 

3

個人を尊重するのはとても大事なことだ。個々人の願いに耳を傾け、それをなるべく実現していくことこそ社会というものの役割だと言える。だが、それには大事な大事な前提がある。つまりは社会を崩壊させない程度においてのみ、それは尊重されるべきなのである。社会の崩壊を防ぐものは言わずもがな秩序であり、秩序とは正しい認識の仕方と正しい言葉の使用に支えられてこそ存在し得るものだ。

 

 

 

4

世界の誤認と言葉の誤用を、個性だと認めてはいけない。正誤がきちんとあることなのだから。誤ったところから芽生えた価値観に対しては、断固としてそれを否定しなくてはいけない。個々人を尊重するためにこそ、それは必要なことなのである。誤認と誤用を容認し許していくことは決して優しさではない。それは一時的な救いにはなれど、根本的解決には決してなり得ない。むしろ解決を遠ざけ、社会を蝕んでいく悪である。尊重には限度がある。何でもかんでも個人の好き勝手というわけにはいかない。我々はあくまで同じ世界に生き、同じ言葉を使っているという共同幻想を見続けなくてはいけない。それこそが我々の生の営みを可能にし、一人一人の人生を支える基盤なのだから。

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