底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

知るは甘く見積もられている

知るは舐められている

知るということはとにかく甘く見積もられがちだ。少し知っただけなのに、だいたい知ったなと思ってしまうのが大概である。どこまで知れば知ったことになるのかという基準さえ人は知らないからだろう。それに知る工程もそもそも面倒くさい。調べたり考えたり、とにかく沢山することがあるので、ついついこのくらいでいいかと早々に切り上げてしまう。更に人は往々にして「早く知ったことにしたい」という願望を持っている。早めにそれへの態度を決めて、対処にとりかかりたいからだ。それらの要因が重なり合い、知ることは多くの場合に不十分なものとなっている。




人は全てを知ることはできない

あるものが「存在」である限り、そこには必ず一つの謎が伴う。全ての存在は存在しなくてよかったのに「なぜだか」存在しているからである。だから、あるものについての全部を知るというのは絶対に無理である。しかも大抵知ることができないのはその存在理由だけに留まらない。複雑怪奇で常に変容し続けるそのあり方などに対しても、やはり人の知る力では限界がある。どこまで知ったら知ったことになるのかという問に実直に答えるなら、どこまで知っても人は知ったことにはならないのである。




人間にとっての知る

だが、当然それでは現実的に困る。誰かに「アレ知ってる?」と聞かれた時には全て、知らないと答えるしかないのでは、日常生活もあったもんじゃない。だからやはり丁度いいところで知っていると知らないに仕分ける必要がある。なら一体どこがその丁度いいところなのか。「自分がどれくらい知らないのかについては知っている」がいいのではないだろうかと思う。全てを知ることのできない人間にとっての「知る」とはつまりそういうことであるはずだ。あるものに対する自分の無知な部分を自覚できた時にこそ、逆説的にそれを知ったことになるのである。




これが無知の知…?(無知だわ)

自分が知らないことさえ知らないのなら、人はそもそもあるものに対して如何なる態度もとることはできない。というより、どんな態度も必ず間違っている。なぜなら、それは知らないということを知らずにとられている態度だからだ。つまりは判断材料が揃っていないのである。それに対して、全てを知らないとしても自分がどれくらい知らないかということについては知っているのなら、それだけで立派に判断材料は揃っていることになる。なぜなら、知らないのだと知っているから、それを加味した上で態度をとることができるのである。つまりはこれが無知の知だ。そういうことですよねソクラテス先生。え、全然違うって?じゃあもう知りません。