底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人の口から出る私は恥ずかしい

他人の口から出る私は恥ずかしい

他人の口から自分のこと、特に性質や特徴などを言われるのはかなり恥ずかしい。自分が自覚していなかったことなら尚恥ずかしい。なぜこんなにも恥ずかしいのか。最近少しだけその答えがわかった。たぶんそれは「自分のことは自分が一番よく知っている」というプライドが傷ついたことによる恥じらいである。自分のことなのに知らなかった。あぁ恥ずかしい。自分で気づくのではなく他人の口から告げられた。あぁ恥ずかしい。言われてみれば思い当たる節がいくつもある。あぁ恥ずかしい。

 

 

もうやめて!とっくに私のライフはゼロよ...

意識的な自分と無意識な自分、その両方が存在していることは知っているのだけど、無意識の自分は定義により意識できないので、度々その存在を忘れてしまう。ついつい意識的な自分だけが自分の全てだという風に考えがちになる。だから、その外側からいきなり「あなたってこういうところあるよね」と言われると、なんだか不意打ちでパンチを喰らったような気持ちになるのだ。そのパンチがクリティカルヒットしていればしているほど、当然その分ダメージは大きくなり、結果激しく赤面してしまう。

 

 

意識的な自分は無意識な自分に支えられて存在している

自分のようで自分でない、でもやっぱり自分であるような自分。無意識の自分とはそんなイメージである。自覚して改めることができないのに、他人には常に自分の一部として捉えられ、しかも明け透けな状態で晒されている。少し考えただけで、恥ずかしくて土に埋もれたい。自分ではどうにもできない自分、一層「それは自分ではない!」ときっぱり捨ててしまえたらどんなに楽であろうか。しかし残念ながらそれは叶わない。意識的な自分とは常に無意識な自分に支えられて存在しているからである。毎日意識が途絶えているのになぜ昨日の自分も自分であるのか、その答えは「途切れとはただ眠っているだけだから」であろう。眠りとは「自分の無意識の状態」であって、「自分が消えた」のではないとされているから、昨日のあいつも、ずっと前のあの子も立派に自分なのである。

 

 

恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい

無意識の性質や特徴を指摘される恥ずかしさは、自分の寝顔の写真を見せられることと似ている。「お前こんな顔して寝てるんだぜw」。うぅぅぅ恥ずかし。好きでそんな顔して眠っているのでもないのに、どんなアホ面だったとしても、やはり私はそれを自分だと認めなくてはいけない。意識して改めたい欲求と意識不可能な現実の狭間で張り裂ける思いである。幸い性質や特徴の方は他人に指摘されれば少しずつだが意識していくことができる。それでも永遠に「無意識な自分」は存在するけれども、多少の気休めにはなり得よう。

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