底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

幸せ物質によって得られる幸せは幸せと言えるのか

幸せ物質をとればみんな幸せになれるならそんなにいいことは無いね

〇〇を食べセロトニンを分泌させて幸せになろう。こんな一文を見た時、私は笑った。人間のこういうところ、大好きだ。それは誰が幸せになることなのか、誰が幸せにしているのか。我々はセロトニンが分泌されたと自覚できない、いちいち計測もしていない、それなのにセロトニンによって幸せになったとどうして思えるのか。不思議でたまらない。

 

 

脳の物質が個人の感情や精神を左右するなら、尊厳ってなんだろうね

脳に私はいるのだろうか。脳は私なのだろうか。確かに脳の損傷で記憶や感情がなくなったり、反対に〇〇物質が分泌されることによって集中力や幸福度が上がったりすることは事実としてあるだろう。だがもし本当にこの因果関係なら、つまりは何かしらの脳の変化が人間の精神や感情などに影響をもたらすという並びなら、人間の精神なんて存在しないも同然ではないか。精神や感情において、私がいかなるよい変化を遂げても、それは決して私の努力や研究のおかげではなく、私がいかなる悪い変化を遂げても、それは私の堕落や怠惰の結果ではないというのなら、個人の尊厳なんてないも等しいであろう。全部が脳の物質によってもたらされたのであるから、そこには自信や責任感、自己嫌悪が生まれる余地はない。いや、生まれたとしてもそれも全て脳の物質によってあるように思えているに過ぎない、ということになる。

 

 

自分が不幸なのは〇〇物質が足りないって本気で思える人いるの?

脳の物質と人間の精神や感情は完全に別の世界の話である。自分が不幸な状況にあるとき、誰がそれを脳の物質のせいにするだろうか。自分が幸福である時、誰がそれを脳の物質のおかげだと言うだろうか。私たちは確実に周りの環境や自身の思いなどによって幸福になったり不幸になったりするのだ。脳の物質が顔を出す余地などそこにはないのである。

 

 

幸せを感じたいのではなく、幸せになりたい

一生幸せを感じられる薬があったら、人はそれを飲むだろうか。その薬を飲んで得られた幸せを人は幸せと呼ぶだろうか。「一生幸せを感じられる薬」と「一生自分が望む幸せな環境にいられる」という二択を神から与えられた時、ほとんどの人は後者を選ぶであろう。後者と比べた時、前者は端的に「偽物」の幸福である。人は幸せを「感じたい」のではなく、幸せに「なりたい」のだ。そこの違いを無視すべきではない。

 

 

どう考えても回りくどい

脳が私の一部であるのは間違いない。だが絶対に「脳の私」ではないのだ。「私の脳」という所有はどんな事があろうと覆せはしない。私の一部である脳を幸せにして、その幸せを私を感じるなんて回りくどいことをする必要がどこにある。端的に自分が幸せになればそれでいいであろう。もちろん「偽物」の幸福でもいいから縋りたいというなら、あとは自分の勝手である。

f:id:kabiru8731:20210917185944j:image