底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

若さと歳をとるということについて

若さについて

若い時人はどこまでが若さでどこからが自分なのかを知らない。歳をとることで何を失って、何が自分に残るのかを知らない。その意味で若さは貴重である。分別がつかない間にできることはきっとたくさんある。歳をとった自分がどうなるのか、それを想像できない間は限りなく幸福である。ところで人は若さがある時が本来の自分なのだろうか。歳をとるとは本来の自分が少しずつ決壊することで、老いれば老いるほど自分のその本質をなくしていくものなのだろうか。或いは逆に老いた時こそが本来の自分で、歳をとるとは若さで覆われていたその本質が徐々に顔を出すことなのだろうか。気持ち的には前者で、しかし真実は後者なのではないかと愚考する。若さに自分の本質があった人が歳をとれば、若さに自分の本質があったというそのことが本質である人になってしまうだけであろうから。

 

 

分からない

今年二十六歳になる自分の中にはまだどれくらいの若さが残っているだろうかと考える。この数字はきっと世間的にはまだまだ若い。私は自分の中に残っている若さにすっかり甘えているのではないかと時々思う。若いからできていること、本来は自分に属さないこと、それらに今この瞬間さえも寄りかかりながら生きているのではないか。正直分からない。こればっかりは実際に歳をとってみないとどうにも掴めないのかもしれない。

 

 

歳をとるということ

歳をとるということには大雑把に三つの意味があると思う。一つ、死に近づいていること、二つ、身体的精神的な衰え、三つ、単純に生きている時間が長くなっていることである。若い時人は生存しているのではない、存在しているのである。自分は一つの命を生きているのではなく、まさに自分としてあるだけだと言えるくらいに、死の影は薄く、全能感に溢れている。歳をとって身体の不調や世間とのズレを感じるようになると段々と分かってくる。この身体と自分とは強く結びついていて、身体の痛みや苦しみ、衰えによる変化などからは決して逃れられないのだということ、自分はただ死にゆく一匹の生物に過ぎないのだとの実感がやっと湧いてくるようになるのである。だがそうだとしても、自分は今はまだこうして生きている。過去の自分を全て背負ってここに立っている。足元には生きた年数分のズッシリとした重みがあるけれど、それは経験という名の自分の人生のアイデンティティとなっている。長く生きれば生きるほど、更に重みは増して、そのアイデンティティは確固たるものへと変貌していくに違いない。死が近づき身体が衰えていく中でも、きっとそれだけは変わらずに自分の財産であり続けるのではないだろうか。

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