底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

価値には公的な基準がある

価値は何で決まる

物事や作品の価値というのはどれだけ多くの人に高評価されたかで決まるのではない。どれだけ高い値段をつけられたかで決まるのでもない。どれだけの労力や時間がかけられていて、どれだけ作り手が拘ったのかで決まるのでもない。どれだけ革新的か、またどれだけ長い伝統があるかで決まるのでもない。それらは全て一つの目安に過ぎない。何の目安かと言えば、もちろん「質」を計るためのである。自明なことだが全てのものの価値はその質の高さで決まるのだ。質が良ければ価値は高いし、質が悪ければ価値は低い。これは言うまでもない当たり前であろう。




サボりすぎ

問題はじゃあその質とは一体何なのかということだが、それは物事や作品が何であるのかによって変わってくるだろう。しかし現状我々は質の公的な基準の探求をサボりすぎているのではないかと思う。あまりに個人の感じ方に頼っただけのものが多いのではないか。美味しさしかり、面白さしかり、正しさしかり。「人それぞれ」という言葉に何もかも丸投げして、公的な基準などさもないかのように振舞っている。価値があるということと、価値を感じられるということは全く別の話であるのにも関わらず、区別をつけることなく、後者だけでそのほとんどを完結させてしまっている。自分が価値を感じられてもそのものに価値があるとは限らないし、価値があるからといって自分がその価値を感じられるとは限らないのに。価値を感じられるということと、価値があるということはそもそも関係さえないのだ。価値を感じるは大抵自分の好みに引っ張られているだけなのだから、それがそのままそのものの質が高いことを表さないのは明白である。質にはちゃんとした理論による裏付けから生まれる公的な基準があるのだ。でなければ、料理研究家や映画評論家なんて職業は成り立たないだろう。




堅実な方法

何においても自分が感じたものが全てだ、という人は端的に質を知る必要はない。だが例えばその物事や作品の意味をきちんと知りたい人、或いは自分も創る側に回って良いものを仕上げてみたいという人は、やはり自分の感覚に頼るだけではだめである。その場合には絶対に公的な基準を設ける必要が出てくる。自分の感じ方を離れ理性で客観的に考えるのでなければ、そこにどんな価値があるのか、どう創れば価値あるものになっていくのかは決して分からないからである。価値があるかどうかの判断を他人や値段やその他目安の一つに過ぎないものに頼りきるのでは不確実な結果しか得られない。やはり、自分自身で公的な基準を探求し、質を見極められる目を養っていくのが最も堅実な方法である。