底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

上手や下手の正体と上手以上についてのお話

超久しぶりに貼りました

鑑賞する側には作品に上手や下手などの優劣はつけられない。だって作品の優劣は作り手の理想が落とし込められているかで決まるから、と以前書いた。詳しくは下の記事参照。そういえば自分の過去記事をを貼り付けるの随分久しぶりだな。ちょっとのことだけど意外に手間でついついサボっちゃうのよね……じゃなくて、しかしそれでも鑑賞する側が端的に作品に上手や下手と「感じる」ことはあると思う。音楽しかり絵画しかり文章しかり、他色々なジャンルの作品を見て、上手だなと感心したり、下手だなと勝手に酷評することは日常においてよくある現象だ。じゃあその時人は一体何を基準にして上手や下手を感じとっているか、今回はそのお話である。

shikouzakki.hatenablog.com

 

 

上手や下手の正体

最初に結論から言ってしまえば、それは「そこに違和感があるかどうか」だと思う。つまりは違和感があれば下手、違和感がなければ上手、である。なんかこの絵下手だな〜とか、なんかこの歌下手だな〜と感じる時、それは得てして悪い意味で何か引っかかるポイントがそこにあるということではないだろうか。構図やら色使いやらバランスやら、リズムやらメロディやら歌詞の内容やら、とにかくどこかが棘みたいになっていて喉につっかえているから、スルッとその作品を飲み込めない、だから下手と感じてしまう。反対に上手とはその棘が一つもないこと、即ち下手だなと思うポイントがどこにもなく、すんなり身体に入ってきた時、人はそれを上手だなと感じるはずなのである。上手は、下手を否定する形でのみ存在しているということだ。

 

 

プロの世界(たぶん)

プロの世界になるとたぶん一周回って、作り手は意図的に意味のある違和感を作品につける。鑑賞者に意外性による驚きを与えるためであったり、自分の個性を表現するためであったり。とにかく、スルッと喉を通ってから、癖になるような後味が口いっぱいに広がっていくイメージである。同じ違和感でも、下手とはやはり全然違う次元にある。

 

 

死ぬほど頑張ることが誰にでもできるとは言ってない

作り手が自分の世界を極める時も同じ。自分の理想を現実に落とし込むのも、とりあえず何か一つ作ってみて、あとは違和感を一つずつ潰していく作業になるはずだ。なんか違うというモヤモヤを具体的なものに変えて試行錯誤をしていく。そうして概ね違和感のないものができあがる。プロを目指さず自己満足でいいなら、それで終わり。プロを目指していくなら、そこにプラスアルファて喉にはつっかえないけど強く印象に残るようなものを考えなくちゃいけない。上手なだけではきっとプロの世界には入ることはできないと思う。だってそれは死ぬほど頑張れば誰にでもできることだから。

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