底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分と他人を分かつものは何もない

自虐的には生きたくない

他人を非難したり、蔑んだり、何かマイナスな態度をとることはなるべく避けたいと思う。他人と自分を分けるものはつまるところ、「現になぜかこの人が私だった」という事実だけであって、目の前にいるこの人も、職場でいつも会うあの人も、道ですれ違ったその人も端的に私でありえた、けど、たまたまどうしてかそうはならなかっただけの、私であった可能性を十分にもっていた人達だからである。私であった可能性がある人たちに何かマイナスな態度をとるということは、私自身に対してマイナスな態度をとるということ。そんな自虐的には生きたくないなと思う次第である。

 

 

分からない

もし私が目の前のこの人だったら。この人と同じ人生を生き、同じ経験をし、それでも果たして今この人が選んでいるのとは違う選択肢をとれるだろうか。分からない。とれる!と言い切れるほどの確信はない。だから、やはり極力寛容でいたいと思う。どんなに現に自分がそれをしていなくても、それは自分の意志や決意以前に、環境や個体差のおかげで、しないで済んでいるだけかもしれない。

 

 

まだ実現できる社会じゃないだけ

いかなるマイナスな態度も抱いてしまうものであって、抱くべきであるものは一つもない、と思う。どうしても受け入れがたく非難してしまう、どうしても尊重できずに蔑んでしまう。それだけではないか。非難されるべき人も、蔑まれるべき人もいない。それは単に価値観の相違であり、社会のシステム的に未だ不十分なところがあるから、時として対面し衝突してしまうだけである。存在する全ての人が自身の欲求を叶えられ、幸せになった世界はそうでない世界に比べて良いというのはあまりに自明だろう。ただその過程で他人を犠牲にするのが良くないのであって、そしてそれが現に起こってしまうのは、個人のせいではなく、社会にまだそれを回避できるシステムがないだけのことである。

 

 

自分の人生を存分に生きよ

生まれてきたいと思って生まれてきた人は一人もいない。生まれたい個体や環境を選べた人も一人もいない。皆初めての人生にドギマギし、その中でどうにかこうにか試行錯誤を繰り返して、それでもどうにもならない部分を抱えながら生きている。目の前のこの人も、職場でいつも会うあの人も、道ですれ違ったその人も、みんな等しくそうなのである。ただその中身が違うだけに過ぎない。一つ何かが違っていれば、私こそがこの人だったのかもしれない。そう想像すれば、もはや自分に何が言えようか。何を言う資格があるだろうか。それよりも今ある自分の人生を存分に生きてはいかがか。

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