底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

哲学は答えがないからこそ始まる

哲学の問

哲学の問には答えがない。だから多くの人にとってそれは無意味な活動に映る。いくら問うたところで分からないのだし、時間をかけても仕方がないだろうと思うわけである。答えを出すことだけに意味を見出すなら、哲学が無意味であるというのは、無論その通りである。だが、哲学の真骨頂はそこにはない。答えがないことなど、哲学的にはいわば当たり前に過ぎない。その答えのなさにこそ驚いて、哲学者は「なぜ…」と問うているのである。答えがないことからやっと、哲学は始まるのだ。

 

 

哲学とは

その意味で、哲学はその答えが「どうしてないのか」または「どのようにしてないのか」を扱う学問なのである。世界が存在するわけなど知るはずもない。だけれど、どうして知るはずもないのだろうと問えば、それは、「世界」というものには際限がないからだと分かる。つまりは、今我々の存在する世界の外に更に世界があり、その世界に例えば神とでも呼ぶべき存在がいて、その神が今我々の存在する世界をつくったのだということが判明したとしても、更にその神がいる世界はどうして存在するのかと問うことができてしまうのである。だから、世界の存在するわけは決して問えないのだと分かる。わけが存在したとしても、それはいつも世界の際限のなさに吸収されてしまう。

 

 

哲学は我々自身を知る営み

答えが「どうしてないのか」「どのようにしてないのか」それを知ることは我々の理解できる世界の形を探りその限界を知るということなのだ。ここにこそ哲学の意味がある。人は理解できるものしか理解できないし、理解できないものは理解できないのである。理解できないものに一生懸命時間を割いても無駄であるし、理解できるものは時間をかければいつか絶対に理解できるのである。

 

 

 

無意味なのは

哲学は全く無意味ではない。むしろ哲学を無視し、その存在を経由せずに、何かを考えることこそ、往々にして無意味に成り果てる。自分が何を理解でき、何を理解できないのかさえ知らずに、きちんと物事を考えられるはずはないのだから。答えがないことは全て無意味だと切り捨てるなら、自分が今こうして生きていることこそ最も無意味であろう。何かを自分の人生の意味だと思い込むことはできても、それが真に自分の人生の意味になってくれることはない。人生というものもまた世界と同じで、仮に意味があるとしても、その意味さえも、その内に吸収してしまうのだから。答えのなさは時に救いでもある。絶対に分かることができないということの安心感、一度覚えたらやめられるものではない。

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