底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

意味のあること意味のないこと

ウトウトしながら文章をお送りしております

意味のないことが好きだ。道の遠回りやお金の無駄遣い、ただただぼーっと過ごしたり趣味に没頭している時間、そういう生きていく上では全く必要のない、自分のやりたいや自分の心地良さに全振りしたような事柄は、言わずもがなとても楽しい。あぁこういうことだけして生きていてぇなと軽率に思ったりする。他に目的のない、その行為のうちに目的と手段が共存しているようなことは、言わば行為をした瞬間に既に目的は叶っているので、成功や失敗なんて概念は出てこないし、目的に対しての手段が適切だったかどうかも当然考える必要がない。ただ無邪気にその行為の楽しさに浸ることができる。

 

 

誤字脱字があったらごめんなさい

だがやはりは軽率である。どう考えても、意味のないことばかり毎日毎日しているわけにはいかない。何よりずっとそんなことをしていると、最初はとても楽しく感じられたものがだんだんと色褪せるようになってくる。なぜかと言えば、抵抗がないからだ。辿り着くまでに多少の抵抗があるからこそ、楽しいことは楽しいのである。抵抗を経由せずに最初からただ与えられてしまうと、人はそのものの価値を見失ってしまう。遠回り、お金の無駄使い、無為な時間は全て「通常はそうしない」という掟を破っている抵抗から楽しさを得ているのだ。

 

 

めちゃくちゃに眠いです

だから、意味のあることも私は好きだ。徹底的に意味を求め、意味のないことを排除していこうとする姿勢は、それはそれでかっこいいものだ。自分の言葉がどんな意味で相手に伝わるのか、その行為をするとどんな結果が降り掛かってくるのか、手段としてそれはきちんと優秀であるのか、などなどを考えに考え抜く習慣があるとすれば、偏に素晴らしいことである。きっとその習慣は仕事や普段の生活で大いに役に立っているはずだ。そしてそんな真面目に根を詰める自分がいるからこそ、時々する遠回りや無駄遣いの楽しさが際立つのである。

 

 

もう何を言っているのかよく分かりません

人生は時間的には一回性のものであり、物理的には一つ一つの物や人は必ず違うものである。たとえどれだけ似ていても、全く同じ出来事や物があるということはありえない。その視点で見れば、全てのものの意味はそのもの自体の内にある。つまり手段と目的の一体化、何もかもは存在する故に存在している。それだけでことは完結する。だが人間だけがその目的をも持ち出して、それ自体何のためにと問うことができる。そう問われた時、もはや存在しているだけで意味があるなどというのはただの戯言である。それが問うているのは、存在それ自体の意味なのだから。答えるには存在の外から答えを引っ張ってくるのでなければならない。しかし、そんなことは無理である。だから、時々は意味のないことをして、その事実から目を背けてやる必要がある。

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