底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

本物と偽物についての雑記

偽物の偽物たる理由

偽物はなぜ偽物と呼ばれるのか、それは偏に本物のようで本物ではないからであろう。注目すべきは「本物ではない」の方ではなく、「本物のようで」の方である。つまりは本物に似ていることが問題なのだ。偽物が偽物である最大の理由は、本物に及ばない点があるから、ではない。一見本物と見分けがつかないくらいに似ていることこそが、偽物を偽物たらしめているのである。似せるから偽物になるのだ。似せなきゃそれはただ別の本物になり得た。いくら出来が悪くても、無様な形でも、何にも似せていないなら決して偽物にはならないのである。

 

 

偽物はなぜ偽物か

現実において、本物と偽物がどのように区別されているかと言えば、それは一つにはクオリティである。例えば、ブランドバッグの偽物は本物よりもクオリティが低いのが大概だ。だが、クオリティが本物に追いつけば、それで本物になるかと言えばそんなことはないだろう。どんなに高クオリティのものであろうとも、偽物は依然偽物である。なぜならそれはそのブランドが正式に認めたものではないから。どれだけ本物と同じ素材を使い同じ製造方法で作ったとしても、正式に認められていなければ、偽物は絶対に偽物なのだ。

 

 

本物と区別できない偽物は偽物か

だがこれは少し空論である。もし誰にも見分けられないくらい精巧に作られた偽物があったとしたら、それは偽物であるという実情を知っている人以外にとって、もはや判別の方法がない。いや実情を知っている人とて、片方を偽物と覚えているに過ぎない。もし何かの拍子に二つがごちゃ混ぜになったら、もう誰にもどっちがどっちか分からなくなる。その意味で偽物を偽物と断定できなくなるのである。

 

 

自分の偽物って自分とどう違うの

自分において偽物の概念を考えてみる。ブランドバッグの場合には、実情を知っていても取り違えたら、本物と偽物が分からなくなってしまうが、自分の場合、どんなことが起きても、自分と自分の偽物のどちらが自分であるのか分からなくなるということはない。なぜなら片方は自分で、もう片方はただ自分に似ているだけの他人だからだ。その意味で私は決して偽物になることができない。だが自分の偽物である彼女もきっと同じことを思っているはずだ。私によく似ていればいるほど、彼女は私の方こそが彼女の偽物であると思うに違いない。そして、第三者からすれば私と彼女は全く対等である。この時もはやいくら私が、私こそが本物だと叫んでも無意味であろう。彼女も全く同じことを口にできるのだから。でも、たとえそうだとしても、事実としてはやはり「私」が本物だ。と、しかしまた彼女もそう思っていることだろう。

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