底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

名前がつくと何が変わるのか

1

自分のある特性に名前がつくと安心する人がいる。名前がついたということによってその特性を自分から切り離せるためだろう。なんだ、「自分が」そうだったんじゃなくて、その特性が自分をそう「させていた」のかと思えるから、ホッと胸を撫で下ろせる。確かに名前が着くと特性は一つの症状になる。だから正体が分かって、それに対する自分自身の態度も決められる。しかしどんな名前がついたところで特性が消えてなくなることはない。所詮は名前がついたというそれだけである。これからも依然自分はそれと共に生きていかなければならない。

 

 

2

名前がつくもう一つのいいところは、それが既存のものと分かることだ。何か得体の知れないような未知のものではなく、既に前例が沢山あって多くがそれを経験してきたとなれば、基本的には過去や他者を見るだけで自分がどうすればいいのかを知ることができる。だがやはりそれだけでは不完全だ。同じ名前で呼ばれていても全然中身が違うということはざらである。人間なんてのが最もそれを表していると言える。人間と一口に言ったって全然誰も彼も想像を遥か超えるくらいに幅広く様子が異なるのである。症状の場合も同じで、いくら過去や他者の対処法を見習っても、自分の時には上手くいかないなんてことが容易に起こり得る。

 

 

3

逆に名前がついてしまうということに不安を覚える人もいる。一度名前がつくともうそれが動かしがたい決まりきったものになるのを恐れているのである。そうでない可能性を完全に封じられ、覚悟をするしかなくなってしまう。これはしかし名前がついてもつかなくても同じなのではないだろうか。まだまだ特性として発見されていないから名前をつけられていないだけの特性はきっと今も自分の中に多く眠っている。名前は既にこの世界に呼び方があるかどうかの違いだけある。

 

 

4

結局は受け入れるしかない。どんなものであれ、それが自分なのだから諦める他ないのである。全てを受け入れ諦めたところからようやく人生は始まる。過去や他者を参考にしながらも、それを踏まえてじゃあ自分はどうすればいいのかは、やはり自分で考えなきゃならない。消すことのできない特性とどう生きていくか、どう生きていけばいいのか、自分自身で一番心地いいと思える答えを出す他ないのである。名前がついても安心はできないし、名前がついたところでどうってことはない。それは全部自分だけにしかなくて、全部が自分なのだから。どうすればいいかは自分にしか知り得ないし、案外何もしなくてよかったり…?

f:id:kabiru8731:20221009064149j:image