底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私にとっての私の生死と他人にとっての私の生死は時として食い違う

人生の最悪

人生の最悪を考えた。私的には二つだ。一つ目は自分が生きているのを誰にも分かってもらえないこと、二つ目は自分が死んでいるのを誰にも伝えられないことである。いずれにせよ、私にとっての私の生死と他者にとっての私の生死が食い違うことが一番辛い。存在しているのに、存在を認知されない。存在していないのに、存在していると思われる。二つに更に順位をつけるなら、一つ目の方が更に辛い。二つ目は、私は既に死んでいるからである。




人は常に孤独

これはでも、人間存在の本質であるように思う。少なくとも日常においても、いつもそうだ。私は他者が存在しているかどうかを正確に読み取れないし、他者も同様に私の存在の有無を読み取れない。だから人は常に孤独である。生きているのに、他者にそのことを分かってもらえない。日常では「たまたま」そのようなことが起きていないように見える。私は「なぜか」この身体この精神といつも一緒にあるからだ。他者もいつもそのようにあるかは定かではない。私には他者の肉体と精神しか見えないので、「他者自身」が今日もその肉体と精神とくっついているかまでは分からない。予想というか希望としてはみんな私みたいに毎日変わっていないと信じているし、そのつもりで接しているが。
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どこからが死

結局人はどこで死んだことになるのだろうか。第一人称の死がどこで起きているのか、生きている人には永遠に分からない。もしかしたら、我々は今まで火葬によってたくさんの「生きている人」を殺してきたのかもしれない。そうでないと言える根拠は何もない。ともあれ、人は何もかもが動かなくなることを死としているが、それが真実であるのかどうかは誰の知るところでもない。死は人が思うよりずっと未知である。




死に際になると分からなくなる

生きているのに、生きていると思ってもらえない。死んだのに、死んでいると思ってもらえない。そんなことがあり得てしまうなんてやはりひどく恐ろしい。それは私と他者が思う私が「最初から」同じでないためであるが、普通はそんなことには気づかない。ほとんどの人は自分や他者の存在を疑ったりなどしないからだ。だが死に際になると、その普段は「たまたま」噛み合っていた歯車が狂いだし、生死のあやふやさは表に現れる。何をもって生きているとすればよいのか、何をもって死んだとすればよいのか。第一人称側からすれば「ある」と「ない」という、それだけの簡単極まりない区別なのだが、他者にはそれが分かり得ない。人は死んだ「と思う」ものを死んだとする他ないのである。

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