底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

教養と科学技術は似ていると思う

何十年前の話だよ

電話の発明によって人は遠いところにいる相手にも瞬時に言葉を伝えられるようになった。それまではきっと手紙を出すくらいしかなく、相手の返答を知るのにも多くの時間が必要だったに違いない。科学技術というのはつまり人々の不便を減らしていくものなのだろうと思う。手紙を出してしばらくじっと待つか、長い道のりを渡って直接会いに行くかの過酷な二択しかなかったところに、第三の手軽に電波を通じてリアルタイムで話すというよりよい選択肢を与えてくれる。人々の生活を自由に豊かにする可能性を作り上げるもの、それが科学技術の役目だと個人的には感じている。




世間一般でこれを教養と呼ぶのかは教養がないためよく分かりません

その科学技術とよく似ているとあるものを発見した、というのが今回の記事で書いていきたいことだ。結論から言えば、それは「教養」である。科学技術が人々の生活の不便をとり除くものなら、教養は人生における不便をとり除くものだと私は思う。ここで断っておくが、私には教養なんてものは全くない。この記事はあくまで無知なブログ主による勝手な憶測であり、そう見ることも可能なのではないか?という一つの可能性の提示に留まるものである。




私の思う教養

さて、本題に移ろう。例えば自分の要求を押し通したいが角が立つのは嫌だという時、その両方を叶えてくれるものが教養なのだと思う。普通なら角が立つからと我慢するか、それでも押し通したいから角が立っても仕方ないと腹を括るかの二択しかないが、角が立たないように相手に納得させる能力を身につければ、それだけで全てを解決することができる。自分に極端な負荷がかかるような選択肢を避けながらも、同時に自分の願いを叶えられるようなよりよい選択肢を作り上げる力、それをこそ私は教養と呼びたい。科学技術の場合とやはり同じである。違うのは科学技術の場合には自分は主に享受する側であるが、教養は自ら能動的に身につけていく必要があるということだ。




似てないですかね

どちらの選択肢も過酷でとりたくない時、その両方のいい結果だけをいいとこ取りした第三択は得てして隠れているものである。それを見つけられるか考えつくかが教養の差なのだと思う。どちらかを選ぶしかないんだと思い込んでいると、まず第三択を見つけようという発想すら生まれ得ない。もっといい手があるはずだと貪欲に考えようとする人にだけ、チャンスが訪れるのである。科学技術も偏にそういった人々の貪欲さに支えられて進歩し続けているはずだ。教養と科学技術、なんとなく似ているなぁと感じた、それだけのお話でした。ちゃんちゃん。