底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

不自由があるくらいの自由が丁度いい

自由と不自由

自由とは常に不自由と隣り合わせに存在している。何かを選ぶ自由があるということは、何かを選ばなければならない不自由があることを意味する。不自由の中にしか自由は存在せず、自由の中にはしばしば不自由が散見される。選択することの自由とは選択しなければならない不自由との関係において初めてあり得る概念である。だから当然、より多くの自由を持つ人は同時により多くの不自由を抱えることになり、自由がより少ない人はその分抱える不自由も少ないことになる。

 

 

なりたいの不自由さ

人間存在の目的とは権利を得ることだと以前書いたが、この権利という言葉を自由と言い換えてもなんら差し支えはないだろう。「〜してもいいと思える」が権利であるのだから、それはそのまま自由の意味になり得よう。しかし「自由になりたい」とは、なんて不自由な願いであろうか。今の自分の不自由を自覚し、そのどうしようもなさにぶつかった時にこそ、人は自由になりたいと願う。だが、どんなに願ったところで決して自由にはなれない。なぜなら、自由とは不自由の別の名であり、不自由とは自由の別の姿だからである。

shikouzakki.hatenablog.com

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不自由とは

自由がない人間などそもそも存在しないのだ。自由とは選択肢が目の前に用意されているということであり、それ以外の何事でもない。そこに「自分が望む」選択肢があるかどうかなんて自由の知ったことではないのだ。意識を持つ人間になら必ず選択肢がある。選択肢が一つしかない状況でさえ、人にはその選択肢を「選ぶ」か「選ばない」かの二択が残される。望む選択肢がないことはただ望む選択肢がないということであって、それは決して不自由を意味してはいないのだ。自分が不自由ですって?その不自由を選んだのはあなたでしょ?自由とはそのように大変酷なものである。だからこそ、人は誰しも自分が自由であるとは認めない。人類の進歩とはまさに様々な不自由解消の道のりと言えよう。

 

 

完全な自由って怖いよ?

自由でありながら、不自由だと嘆き「今あるのとは違う自由」を手に入れようとする。人間とはそのように欲深い生き物である。しかしそのようにしか生きられない生き物でもあるのだろう。これから先人生の全てが完全に自由になる権利を神様がくれるとして、一体どれくらいの人が恐れずにそれに飛びつけるだろうか。不自由の伴わない自由の恐ろしさたるや、私は考えただけで寒気がしますね。結局人間には不自由があるくらいの自由がお似合いなのではないか。選択肢が三つ四つほどしかなく、「うーん」と悩める。そんなささやかな自由が幸せな範囲ではないだろうか。

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