底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

甘えはいけないことなのか

甘えはいけないこと…?

「甘え」はなぜだかいつも「いけない」ことであるという前提で語られる。「〇〇は甘え」という言葉が攻撃的な意味を持っているのは、もはや言うまでもなく人々の共通認識であるようだ。つまりは、その言葉によって、相手がいけないことをしているのだと指摘し強く非難しているつもりなのだろう。それに対する反論も「そうだ、甘えて何が悪い」というのではなく、「違う、〇〇は甘えじゃない」の形で為されることがとても多い。もちろんそれは単純に〇〇が甘えじゃないからという理由もあるかもしれないが、どちらかと言えば、甘えのようないけないことではない意味をこそ強調したい風に見受けられる。

 

 

甘えの場合のいけないとは

甘えは確かにいけないことと言える一面はあると思う。しかし、それは「通常」はという条件の元に限られる。どんな状況においても、なんていう絶対的なものでは決してない。しかも「いけない」とは言っても、それは公に見せるべきものではないくらいの意味に留まる。することさえダメだという程のことでは全然ない。仕事や公共の場では控えさえすればそれで十分なのである。ここでの通常とは自分が心身共に健康的な生活を送れている場合を指す。心身共に健康的なら公の場で甘えるのははしたない。甘えるのいけなさとはせいぜいそのレベルなのである。

 

 

非常な時には非常な対応が必要

甘いとはつまり特別扱いの意味である。そこに狡さを感じる人が多いのだろう。だが人には絶対に非常な時がある。非常な時でさえ特別扱いをしないというのは却って不公平である。通常には通常の対応を、非常には非常に適した対応を、それが正しいのはもはや言うまでもない。全てに一律の対応をするのは確かに平等だが、平等であるだけだ。見せかけを整えることに固執すれば、実際の場での意味が損なわれていく。何のための平等か、それを見失ったなら事態はおかしな方向に進んでしまう。

 

 

甘えなければいけない

人間には特別扱いされたいという欲求が根源的に備わっていると思う。家族という生活様式が長く続いているのがその証拠だろう。思う存分に気を緩められる空間や関係がなくてはならないのである。甘えられる何かがあるからこそ、普段は張り詰めることができる。メリハリが必須なのである。張ってばかりいては自分が壊れてしまうし、もちろん緩めてばかりいてもそれはそれで自分がダメにある。大事なのは緩める必要がある時と張らなければいけない時を見極めて適宜行っていくことである。とにかく甘えのいけなさはとても限定的なものだ。全ての場合にまで及ぶなんてことは全くない。むしろ人生には逆に甘えなければ「いけない」時が存在しているのである。

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