底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

理想は知らず知らずのうちに

今日は理想のお話

理想を叶えるというのは酷く難しい。それ故に理想は理想なのであるから、これは当たり前なのだけど、せめて死ぬまでに一回くらいは「理想が叶った!」と心から叫んでみたいものだ。それが私の理想。叶うかな。難しそう。だって理想だからね。

 

 

理想の定義からして理想は叶わない

理想を叶える難しさの最たる要因は、叶った時にはそれは既に理想ではないからだろう。理想が現実になれば、理想はもう理想の体裁を保てない。叶うのが酷く難しく手が届きそうにないもの、それこそが理想を理想と定義しているからである。実際に叶えば、その定義からは外れてしまう、故に理想でなくなるのは当然のことだ。定義的な観点でなく、現実の実感としてもそうであろう。理想が叶った瞬間には、もう次の理想が見えているものだ。叶ったという喜びはそう続かないし、叶えても叶えても終わりが来ることはない。究極の最果てであるような、それさえ叶えられればもう全てが完璧に理想だ、それ以上は何もいらないみたいな理想的な理想はこの世にはないのだから。

 

 

このブログの理想の役割

このブログにも一応理想みたいなものがある。そんなにガッチリ決まっているわけではないが、ぼんやりとブログを書くことによって叶えていきたいことがそれなりにはある。だがもちろん全くと言っていいほどそれらは叶えられていない。例えばもう何度も書いてきたし、ブログ名にもしている記録であるという役割、それを果たしている記事は実際には極わずかであるし、厳密に言うのなら、おそらく一つもないことになるだろう。どれもこれも純然たる記録と言うには、雑多なものが混じりすぎている。他には死に悔いを残さないための吐き出し口として、思考をより一層研ぎ澄ますための足場として、自己肯定感を補填するための養分として、書いているつもりなのだが、叶う兆しが見えたことは一度もない。全てただの悪あがき止まりである。

 

 

理想は知らず知らずのうちに

理想は追いかければ追いかけるほど遠ざかっていく。その意味で理想は知らず知らずのうちにしか叶わないのだと思う。ふと気がついた時には、ずっと前に理想として思い描いていたものが叶っている。隅々までその通りとまでは行かないけども、これはこれで悪くないと言えるような形で、そのほんの一部が実現されていたりする。このブログもそうである。十代の頃私は本を書くのが夢だった。それは自分の書いた文章をこの世に残して誰かに届けたかったから。随分違う形にはなったが、もう叶ったと言えば叶っている。十代の頃の自分に今を見られたら全然理想と違う!!とどやされるかもしれないが、これはこれで悪くない、と今の自分はそう思う。

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