底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

いいことを教えるはいいこと?

いいことを教えるはいいこと?

いいことを教える、は必ずいいことだろうか。普通に考えれば、その通りだろう。教える内容がいいことである限りいいことであるはずに違いない。少なくとも悪いことにはなり得ないはずだ。だっていいことを教えるのですよ。いいことを教えることが悪いことになるなんて、そんな道理はないでしょう。教えるというのは、強要や脅迫のような加害行為ではないのだから、教えるを通しただけでいいことが悪くなるなんてどう考えてもあり得ない。むしろ教えるにはシェアすること、分かち合うことなどの意味があるから、その意味でもやはり、いいことを教えるのはいいことだと賞賛を受けても、悪いことだと非難される謂れはないはずである。

 

 

KYってもう死語かな

しかし、現実には躊躇われる時がある。それは相手が今あるもので既に幸せいっぱいの時である。そんな時に「もっといいことがあるよ」なんて口にするのは、その幸せに水を差しているだけだろう。空気が読めないにも程がある。相手が「これすごく安値で買えたんだ!」と嬉しそうにニコニコしている時、「それより安いお店があるよ」という一言はただのお節介で、むしろ相手を不愉快にさせかねない。それ自体はいいことでも、相手が幸せに満ちている時にそれを教えるのはいいこととは言えないのである。

 

 

違いはなんだろう

だが例えば酷く濁った泥水を美味しいと言いながら飲んでいる人がいたら、大抵はこの世にはもっと綺麗でもっと美味しい水があるよ!と教えたい気持ちになるだろう。今度はそれは純粋にいいことのように思える。少なくとも悪ではないはずだ。だが、今まさにご飯屋さんで、すごく美味しいと食べている人に対して、「もっと美味しい店がある」と言うのは偏に余計に思われる。少なくともいいことのようには感じられない。この感覚的な違いを生み出しているのは一体なんだろうか。どうして前者はいいことのように思えて、後者は余計に思うのか。前者も後者も、本人はそれを美味しいと感じているところは全く同じなのに。

 

 

エゴ

きっとそれは「私達から見て本当に幸せなのか」に尽きるのだと思う。つまりは偏ったエゴだ。泥水を美味しいだなんて、とても見ていられない。それを美味しいと言ってごくごく飲まれたのでは心が痛い。そういう罪悪感によって、教えることは端的ないいことになる。ご飯屋さんで出てくる食事は大概どこも美味しい、当人達がそれに大いに満足し嬉しそうにしている、私達から見ても本当に幸せと思えるから、それ以上が余計になる。いいことを教えるのいいと悪いを分けているのは私達の主観に過ぎないのだ。でも現実的に私達はきっとそうして分けるしかかないのだと思う。だがそれでも問うこともやめてはいけない。果たして本当に教えるべきなのかと逐一自問するべきである。いいことでも、それを教えるのがいいかどうかはまた別の話だ。

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