底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

目先にある欲求と未来にある欲求

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目先の欲求を満たす。そうすると後に何が残るのかと言えば何も残らない。時にその残らなさに人は少々の喪失感と虚無感を抱いたりするくらいである。目先の欲求はいつだって満たしたその瞬間が最も満足感が高く、そこからは何もかも下がっていく一方である。だが満たした瞬間の満足感は他のどんなものにも引けをとらない。自分はこの一刻のために生きてきたのだとさえ言えるような、最高の満たされ具合が味わえるのである。それに比べで、少し未来にあって達成するのに手間と労力がかかるような欲求がある。こちらは満たすまでにひどく時間がかかるし、満たされるまでのその間は当然ずっと不満を抱えていることになる。叶えた瞬間の満足感はというと、個人的な感覚で言えば目先の欲求を満たした時よりは少し低い。手間や苦労をかけた分そもそもの期待値が上がってしまうのもあって、すこぶる高い満足感は見込めないのが大概である。

 

 

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だが目先の欲求と違って、少し未来にある欲求には後に残るものが非常に沢山ある。全てをまとめて一つの言葉にしてしまえば、それは経験である。叶えるまでにかけた手間や労力の中で得られた知識と知恵、叶えるまで一つの物事に向き合い続けた姿勢などには、今後の人生で役立つこと間違いなしのお宝的価値がふんだんに詰まっている。他からでは決して得られない素晴らしい価値である。

 

 

3

目先にある欲求を満たし続ける人生は単調である。もちろん満たされたその瞬間は最高に気持ちいいけれど、それを繰り返すだけの人生を想像すると、なんだか人間に生まれた甲斐がないなと思う。せっかく本能から一歩引いた目線で、色々なことができる動物に生まれたのだから、存分に活用してもっと豊かに多層的に人生を楽まないと損ではないだろうか。

 

 

4

未来にある欲求、一般には夢とか目標とかと呼ばれるものだ。世の中ではそれらは実際に叶うかどうかがとても重要視される。叶えてこそ意味があるし、叶えてこそ素晴らしいものだというような風潮が感じられる。だが、そうではないだろう。まず夢とか目標があること、それらを見つけられたそのことが一つの奇跡である。そして、目先の欲求を抑えてその未来に向けてひた走るという行為、走っている途中で得られた気づき、全てが自分の貴重な財産となる。もはや実現できたかどうかなど大したことではない。できなければそれはただ次への足かがりになるだけだから。未来にある欲求は叶えようと決めて行動に移した、その瞬間から既に価値が発生しているのである。

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