底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

平等は下らない

平等は下らない

平等というのは実に下らない。何が下らないって、等しくあるそのことが既に下らないでしょう。等しくあるとは即ち、あるのが当たり前の意味なのだから。当たり前のものは全てにおいて下らないに決まっている。それが当たり前という言葉の定義だ。しかし、そんな平等は世の中では大層持て囃されている。まるで素晴らしいものであるかのように扱われ、疑うまでもなく全人類が目指すべき場所として煌びやかに、そこに存在している。この落差は何ゆえに生まれるのだろうか。

 

 

平等という名の?

平等というのは皆が同じであるだけではダメである。優劣の差がある時、皆が望む平等は必ず優れている者と等しく揃うことだ。貧富であるなら、誰しも貧富のプの方に揃えて欲しいのである。ヒンの方に揃えるのではまるで意味はない。普通はヒンである状況を打破したいからこそ平等を望むのだから。つまりは本当は皆は平等を望んでいるのではなく、「自分もあの人のようにアレがある人生がいい」と言っているだけなのである。自分の欲しいアレを生まれつきで持っている人がいる。そんなのずるいじゃないか。どうして自分にはないの。そんな思いを一身に背負い生まれたのが「平等であるべきだ」という望みなのだ。

 

 

下らないから持て囃される

即ち、平等は下らないものであるから、持て囃されているのだ。既に自分の身の上にもある平等は下らない当たり前のものとされているために気づかれることさえない。だから世の中にはいつまで経っても不平等しかないということになって、平等は決して叶えられない崇高な理想となる。本当はもう足元にたくさんの平等が落ちているけれど、下らなさすぎて誰も見向きすらしていないのである。

 

 

やっぱり下らない

結局みんな自分にアレがないことが許せないだけなのだ。世の中の平等なんてほとんどは興味ないでしょう。本当に平等を目指すのなら、まず自分にあって他人にないアレにも目を向けるはずなのだから。そんなことをしている人は極々少数である。多くはやはり自分になくて他人にあるアレだけしか見てはいない。そのたった一つの差異をもって、世の中が不平等であると訴えているのである。やっぱり平等って下らないですね。実現したらすぐさま下らない当たり前になって見向きもされないくせに、実現途中では神のように崇拝される。つまるところ、みんな不満をぶちまけたいだけなのがよく分かる。そのままぶちまけるのはさすがにみっともないから体裁を取り繕うために、平等を掲げているのであろう。自分もアレが欲しいって素直に言うことは、それだけ人にとって難しいらしい。

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