底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

目的に正解はなくとも手段にはある

目的に正解はなくとも手段にはある

生きている上で人それぞれが持っている目的や理想に正解はない。そこは何を持つべきかなんていう「べき性」が働くところではなく、違法でない限りは完全に個人の自由に属する領域である。誰しも自分が思う正解を思う通り生きればいいのだ。そもそも皆全然異なる人間なのだから、人それぞれで描くものが違うのは当たり前であるし、他人に大きく迷惑をかけるのでないなら、なんだって自分の自由であるのも極めて当然のことだろう。しかし、そこに向かう手段の話となれば、別である。目的や理想に正解はなくとも、そこに向かう手段の方には、必ず正解がある。それはどんな目的や理想においても、そうなのである。

 

 

正解はあるが従わない自由もある

この場合の正解とはもちろん「目的を叶えるのに一番効果的なもの」である。手段とは言葉の定義により、目的を叶えるためのものなのだから、一番効果的なものが一番正しいに決まっている。効果的が分かりにくいなら、時間に置き換えてもいい。つまりは時間的に一番早く目的を叶えられるものが、一番手段として正しい。ただこれは正解であるだけで、ここにも依然「べき性」が働く余地はない。正解ではあるが、それに従わない自由も別にある。その手段は面白くないとか楽しくないとか、そんな理由で拒絶しても全く構わないのある。

 

 

働かざる者文句を言うなかれ

しかし、その正解の手段を知っていること、或いは知ろうとすることには「べき性」が働くのではないか。いや、働く「べき」なのではないだろうか。知っていても 使わないのは全く個人の自由であるけれど、その目的を掲げる者として、正解の手段を知らない、知ろうともしないのは、果たしていかがなものか。そんなのもう自分は他力本願だと言っているようなではないか。もちろんそれも個人の自由だが、それなら全く叶わなくても、苦言を呈したり、悔しがったりする資格はないというものだ。

 

 

理想を持つ人の義務

他でもない自分自身が持っている目的や理想があるのなら、どうしたらそれをきちんと叶えられるかと自分で考えるのが筋であろう。手段を知ろうとすることは、その目的や理想を持つ者の義務であるように思う。目的や理想だけはあるのに、それを叶えるのは自分でない他の誰かがやってくれると考えるのは、なんというか、端的に図々しいではないか。確かに実際にやるとなれば、酷く難しい問題もたくさんあるだろう。しかし、だからこそ何をどうしていくのがよいかくらいは、自分で知ろうとしなければならない、知っていくことは誰にでもできるのだから。そこを放棄するのは単なる怠惰でしかない。