底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉には乗らないものをこそ伝えたい

言葉は世界を分かつ

人も世界も本来とても曖昧にできている。どれもこれも、はっきり分かれているものはそう多くない。しかしその曖昧さはどうしたって言葉には乗せられない。言葉はあらゆるものを「それ」と「それ以外」に分けてしまうからである。何かを言葉にするということは、即ちそれ以外を言葉にしないということであって、その境目は思っているよりも遥かにくっきりしている。美味しいと言えば美味しいということになり、まずいと言えばまずいということになる。美味しいようなまずいようなよく分からないと言ってみても、美味しいようなまずいようなよく分からないということになる。どれだけ曖昧に表現しても、言葉にする限り言葉にした「それ」以外は絶対的にその外へと締め出され、必ず意味の限定が成されてしまう。

 

 

言葉には乗らないものがある

言葉にする前のものは、言葉のようにはっきり形があるではない。その形なきものを形にする作業がつまり言葉に変換するということであるが、どんな形に入れてみても、結局は収まりが悪い。当然である。言葉に全てを乗せられるなら、そもそも言葉など必要はないのだから。言葉の限りを尽くしても残ってしまうもの、それをこそ伝えたくて人は言葉を発するのである。

 

 

人と人は誤解し合う

人と人のやりとりの基本は誤解である。ただ日常では多少の誤解があっても大方伝わっていれば問題ないので、言葉は上手く機能する。特に「そこにあるペンとって」のような、具体的で目に見えるものに対して言われている時が、言葉の光るところである。ほぼ確実に伝わると言っていい。だが、もっと抽象的なことや、自分の気持ちなどの他人には見えないことになってくると、点でダメダメである。言う方は、言葉にした「それ」に意味が限定されて、言いたかったこととは違うものになってしまうし、受けとる側は「それ」から勝手に想像して意味を補うしかないので、元の伝えたかったことから見ると、ほぼ別物である。

 

 

人は何を伝えたいのか

人と人が言葉を交わす理由、それは自分の意志を伝え、相手の意志を知りたいからであろう。日常レベルの小さなことなら全然良かった。「私はカレーが食べたい、あなたは何を食べたい?」。それくらいのことなら誤解の余地はなかっただろう。人は言葉を買い被った。それ以上のことも伝えたい、伝えられると思ってしまった。「それ」と「それ以外」の分け方がどれほどの深い溝を作り出すのか、どれほどの誤解を生み出すのかをもたぶん知った上で、それでも微かにでも伝わってくれればと、そう願ったのかもしれない。「何を」かは分からない。分からないからこそ、世界は言葉に溢れているのであろう。

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