底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

偶然か必然かは自分次第

1

私がこの人としてあることは偶然だ。この人のいかなる性質を持ち出しても、私を表すことはできない。私とこの人の間に必然的な結びつきは何もない。ただ現状として、「なぜか」私はこの人であり、他の人ではなかっただけである。別に他の人が私でもよかっただろう。今私の母親であるところの人物が私であってもよかったし、友人や知り合いや、或いは画面の前のあなたが私でも、端的によかったはずだ。必然的と言えるのは、ただ現状としてなぜかそうはなっていないということだけであるのだから。別に私があなたで、あなたが私でも全然よかったのだ。

 

 

2

その偶然である事実を自覚した上で、他人の人生を見渡すと、全く知りもしないような赤の他人でさえ、その存在を他人事と捉えることができなくなる。今、自分がその人でないのは偏にたまたまであるからだ。人の優しさの根源がここにあるのだと思う。他人の思いは自分には直接感じられない。他人がどんな嫌な思いをしても、暴力などの加害行為に出ない限り自分には何の関係もない、そして、実際にそうする人はとても少ないだろうということから考えれば、他人を思いやる必要性なんて本当はほとんどないと言ってもいい。しかし、それでも人は人を思いやる。その理由は、自分こそが目の前のこの人であったかもしれないと無意識にでも思い至るからではないだろうか。

 

 

3

今度はそれで自分の人生見渡してみよう。自分の人生を偶然であると見ると何が起きるか。こちらはたぶんほとんどがあまりよくないことである。まず、自分の好きなところを素直に好きではいられなくなる。全てはたまたまで得た特性に過ぎないからだ。後は自分の人生に責任を持つ心が失われる。別に何をしようが自分がこの人であることさえ偶然であるなら、責任を持つ必要がないのは自明だろう。偏屈で自堕落な人間になり下がるのは、もはや火を見るより明らかである。なぜかは分からないが、自分は既にしてこの人であり、現に他の人ではない。自分の人生を見る場合にはこっちの必然的事実から出発するのがいいと思う。そうすれば自分の好きなところは素直に好きでいられるし、自分の行いにもある程度の責任感を持てるようになるはずである。

 

 

4

現実は必然と偶然どちらとも捉えられるようにできている。「現に」というところから見れば全ては必然であり、「現に」を外して個々の可能性だけで考えるなら全ては偶然である。あとはもう、どう捉えていきたいかという自分の見方次第なのだと思う。この記事も私個人の希望的な見方であるに過ぎない。

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