底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

豊かになって実感はなくしたとしても忘れたくない

大人気ない大人買い

知らない街をぶらぶらしていたら、久しぶりに駄菓子屋を見かけた。随分懐かしい気持ちになった。小学生の子らが買っているのを見て、自分にもこんな頃があったなぁとすっかり思い出に耽ってしまった。もう十五年以上も前の話になるのか。うへぇえ。子供達が立ち去った後で、自分もお店に入ってみることにした。昔自分がどんなのを買っていたか思い出しながら、それらをどんどん手にしたいたら、気付かぬうちに籠がいっぱいになっていた。大人気なく大人買いをしてしまった。お会計はギリ千円には届かないくらいだったかな。家に帰って、焼たらをむしゃむしゃ食べていたら、なんだか虚しさで胸がいっぱいになった。100円玉を握りしめながらお菓子に目を輝かせていたあの頃の自分はもうどこにもいないんだなあ。

 

 

悲しいかな

あの頃の自分と今の自分とは何が違うのだろう。私はなぜあの目の輝きを失ってしまったのか…。答えは明らかである。今の私にとって、100円はもう大金ではない。それが、あの頃の私と今の私を分かつ決定的な違いだろう。あの頃の自分にとって、100円は自分の全財産であり、そして、世界を買える全てでもあった。でも今の自分にとっては、たかだか月の給料の何千分の一にして、一枚ではもうほぼ役に立たたない小銭である。悲しいかな、私はあの頃の何万倍ものお金を手にしたのに、あの頃の楽しさ一つさえ取り戻せない。

 

 

何しても無駄

豊かさは人生から楽しさを奪う一面があると思う。100円玉の有難みを、100円玉の重みを、100円玉でものを買う喜びを、私はもう味わえない。いつの間にか、万札の買い物でやっと迷うくらいの鈍感で汚らわしい大人になってしまった。一体どうしたらあの頃の感覚を取り戻せるのだろう。今あるお金を全部寄付して、手元に100円玉だけを残しみるとか…?ううん、きっと無駄である。そこに待ち受けているのは、100円しかないという焦燥と不安に違いない。最初からそれしかないのと、他を失ってそれに戻るのでは、話は全く違ってしまう。

 

 

唯一の良さを失わないためにね

振り返ってはいけないのかもしれない。どう足掻いたって元には戻れないのなら、昔の楽しさは思い出として諦める他ないのだろう。常に今の自分に適した新たな楽しさを模索する。そうやって人は前に進んでいくのだ。でも、あの頃確かに感じていた有難みと重みと喜びは、たとえ実感を伴わなくなったとしても、記憶にだけはきちっと仕舞っておきたいと思う。たまに思い出して、今の自分の不純さを反省するためである。純粋から不純は見えないが、不純からは純粋がよく見える。不純が純粋に勝る良さってそれだけなのではないかな。

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