底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

優しさは見かけでは分からない

優しさは思い

相手を不快にさせないようにすることだけが優しさなのではない。時には自分の思いの丈を実直にぶつけたり、厳しい言葉を投げかけるのも優しさの一つである。行為の形式、つまりどんな行為になら優しさがあるのか、という問いの立て方では優しさの真実は見えてこない。行為の形式はせいぜいその外延を決定するだけである。即ちどんな行為には絶対に優しさがあるとは言えないのかとは線引きできるが、その線の内にあるどの行為になら絶対に優しさがあるのかについては決められないのだ。なぜなら優しさとは思いであって、その思いが行為に込められているかどうかが、行為に優しさがあるかどうかを決めるからである。

 

 

損しかないのに

それをされた時には酷く不快だったが、後から相手のその行為の有り難みに気づくということが人生には確実に存在する。しかしそれをする役回りは普通誰もやりたがらない。大抵嫌われるし、その有難みに気づいてくれるかどうかも賭けだし、気づいてくれるとしてもそれがいつになるか分からないし、それに気づいてくれたところで、自分に何かの直接的な得があるのでもない。どちらかと言えば損しかないのである。

 

 

優しさは見かけでは分からない

加えてそれは自分の感情をむやみに発散させただけの行為とよく間違われてしまう。見かけ上は確かにとてもよく似ているからだ。見かけ上では、ただ嫌われたくないだけ、ただ外面をよくしたいだけの人の方がやはり優しく映るのである。それが相手を思っての行為でなかったとしても、相手を不快にさせていないというただその一点に重点が置かれて、優しさが評価されてしまうのだ。もちろん相手を不快にさせないように気をつけることも優しさの一つであるのは違いないだろう。だがそれは優しさの一つであって、優しさの全てではないはずだ。不快にさせていないという形式だけを優しさの評価基準にすべきではないのである。

 

 

読み取る努力が必要

一つ一つの行為に優しい思いが込められているかどうかを見極めるのは難しい。だからついつい行為の形式だけで、そこに優しさがあるかどうかの判断を下してしまう。これは偏によくないことである。そうすればするほど、自分を高めたり成長させてくれるような、より深い優しさをくれる人をなくしてしまうからだ。優しさは思いなのだ。思いは受け取る側がそこから読み取らなければいけない。行為の形式に惑わされることなく、何にも頼らずに自分の頭で考えるのである。そうして初めてそこから身に染みるような温かな優しさを受けとることができ、これ以上ない有り難みを実感することができるのだ。どうか本当に自分に優しい人を見逃さないで。

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