底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人が大切にされるべき理由

なぜ

人はなぜ大切にされるべき存在なのだろうか。大切にされるに値する源は一体どこなのか。今回はそれを考えてみたい。

 

 

理由として不十分

「一つの命だから」と言う人がいる。失えば二度と元に戻らない一回性のものだから、大切なのであると。これは確かにそうなのだが、しかしそれだけでは理由として不十分だろう。それなら他の一切の生き物も人と同じでなければならない。でも明らかに、人はそこから区別されている。しかもその理由は、我々自身が人間だからという生物的エゴによるものだけではないはずだ。人間と他の生物は客観的に見ても判然たる差がある。その差を生み出している一つは、個性である。だから人が大切なのは「一人一人違うからだ」と言う人もいる。誰一人として同じ人間はいない、皆が皆、代替不可能な存在であるところにこそ人の大切さがあるのだと。これも確かにその一面はあるかもしれない。だが理由としてはやはり不十分と言わざるを得ない。だって裏を返せばそれは、全く同じ人間がいて代替可能な存在であるなら、その人は別に大切でないということになってしまう。まさにそうではないからこそ、人は大切な存在であるはずなのに。

 

 

源はここ

そうである。人の大切さはその存在の仕方にはないのだ。命が一回性なものであろうとなかろうと、代替可能なものであろうとなかろうと、その一切に関わらず、人は大切なのである。なぜなら、人が一人存在するとは、「自分」というものがそこに一つあることを意味するからだ。自分とは、それがあることによって初めて世界が存在し、それがなくなることによって世界そのものが消滅するような、この世の全てを超越した存在なのである。それを全ての人が持っている。故に人は誰一人の漏れなく、大切なのだ。だからこそ、人を殺すということは重罪になる。それはその人の命や個性を奪うに尽きない、世界丸ごとを消す凶悪極まりない行為なのである。

 

 

犬や猫が好まれるのはその可愛さだけが理由なのではなく、まさに「自分」があるように見えるからだろう

これからいくら寿命が伸び、たとえ人に死がやってこない世界になっても、個性が均一化し皆が同じ見た目で同じ考え方をするような世界になっても、その大切さは決して揺るがない。誰しもに自分があるというそのことは、少しも変わらないからだ。人の大切さはそのあり方では測ることはできない。なぜなら、あるというそれだけに既に全ての大切にされるべき理由が詰まっているからだ。自分がある、ない。それこそが人の、大切にするか否かのラインなのだ。ある、或いはあるように見えるのなら、その存在の仕方に関わらず、全ては一様に大切なのである。

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