底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

悔しさは結局バネにするしかない

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悔しい。なんか悔しくないですか。私はすっごく悔しい。何がって。全部全部。毎日あれもこれも悔しくてたまらない。生きているって何なのか全然分からないこと、自分よりすげー人がたくさん世の中にいること、ブログがうまく書けなかったり、本の内容をいくら考えてもよく理解できないこと。そういうの全部全部心の底から悔しいと思う。その悔しさを持て余して、私は日々を生きている。無闇にぶち撒けるようなダサいことはしたくない。かといって端的にそれを無視できるほどの器用さも図太さも持ち合わせてはいない。たぶん私はその悔しさを「正しく」発散させる方法を求めているのだ。

 

 

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このブログはそのための手段の一つであるし、私がテツガクに手を出したのもきっとここら辺が関係している。別に悔しさを消し去りたいわけではないのだ。それは私の生きる活力でもあるから。悔しさがあるから私は死にたくないと思うし、頑張りたい心を失わずに済んでいる。もちろん逆から言えばそれは、悔しさがあるから死ねないのだし、頑張らずにいられないということでもあるけれど。

 

 

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しかし、そもそもなぜ私は悔しいのか。別に生きているのが何なのか分からなくたって、自分よりすげー人がたくさん世の中にいたって、ブログがうまく書けなくても、本の内容をよく理解できなくても、それでいいじゃんか。悔しさを感じる必要なんてどこにもない。ただ他のことと同じように淡々と流せばいい。全部悔しいと冒頭には書いたが、その実、悔しさを感じていることなんてほんの一部に過ぎないではないか。自分が拘っているところだから悔しいのである。端的にその拘りを捨てればいい。

 

 

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そうはいかない。その拘りにこそ自分の存在意義があると私は考えてしまっているからだ。拘りを捨てることは私を捨てることに等しい。私はそれらの拘りに自分を託しているのである。それらに拘り抜いてやっと、私は私であり続けられる。だから悔しさとはやはり一生のお付き合いになる。正しく発散させる方法はつまるところ一つしかないと思う。それはその自分の拘りのところをひたすら磨き続けることである。悔しさをバネにして、少しでも前に進む以外にはない。

 

 

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きっと、私は死ぬ時も今抱えている悔しさを抱えたままなのだろう。死ぬまで長くてたかだか数十年、その間に解決できなるようなことでないのは目に見えている。そのことが既に悔しくてたまらないけれど、今悔しさを捨てるよりは多少ましな悔しさの程度であるから、やはり燻った悔しさをどうにか宥めながら、唯一の正しい発散方法にしがみついて生きていく他はない。

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