底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自他の区別の仕方について

なぜか間違えない

世界には約80億の「私」がいる。言語は違えどみんながみんな「自分」を「私」と呼ぶのはどこでも変わらないはずだ。じゃあその80億もいる私の中から、人はどうやって、自分の私を識別しているのだろうか。どうして「私」を間違えるなんてことが起こらないのだろうか。みんながみんな私なら、何かの弾みで一回くらい間違えても全然おかしくないのに。あーこれは自分の私じゃなくて他人の私だったわ、というように。自明ですね。なぜなら「真の私」は必ず一つしかないから。ビンタされて頬に痛みを感じる人は世界に一人しかいない。だから、決して私を間違えることがない。

 

 

それ以外にはない

私と他人を分けるところはズバリ言えば、ここしかない。感覚が実際にある方が自分の私で、感覚があるかもしれないが決して直には感じられない方が他人の私である。他の記憶や顔つきや性格でなどでは自他の区別は行えない。自分と全てが同じでただ自分でない人など簡単に想像できてしまうのだから。逆に言えば、感覚が実際にあるのに、それが他人の私であるなんてことも絶対にない。直に感じられるならそれは必ず自分の私である。

 

 

直に感じられるのでない感覚

さっきから私は「直に感じられる」という表現の仕方をしているが、そもそも「直に感じられるのでない感覚」などはこの世にはないはずだろう。感じられるなら全ては直であり、それが感じるという言葉の定義である。しかし他人の感覚を表現する時には、やはり「直に感じているのでない感覚」という言葉を使わざるを得ないのではないか。つまり、他人には直に感じられているが、私は直に感じていないという意味の言葉をあてがう他ない。それ以外にどう表現できるのか、少なくとも私には思いつけない。他人には感覚などないと言い出す狂人ならともかく、常人ならきっとそれに似たり寄ったりの表現の仕方をするはずである。

 

 

他人も「実際に」何かを感じていると認めるなら自他の区別は消滅する

だがそうであるなら事態はやはり矛盾することになる。もし直に感じるのでない感覚の存在をこの世のうちに認めるなら、ビンタされても頬に痛みを伴うのは世界に一人だけではなくなってしまう。それは実に80億人もいることになる。そうなれば自他の区別のしようが消えて問題は振り出しに戻る。痛みを感じる人が一人しかいないというそのことこそが私を他から分ける印だったのだから。もうここでは、「それでも直に感じているのが自分の私だ」のような言い方も使えない。まさにみんながみんなそれぞれそうなのだ、という話をしているのだから。その中から自分の私を探しあてる術はもう残されてはいないのである。

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