底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

原因と理由は共存できる

原因と理由

自分が何かをしようとする時、なぜそれをしようとするのかという問を発すれば、そこには二通りの答え方が存在している。一つは外から答えること、つまりはしようとする「原因」である。例えばアルコール依存症の人がなぜ目の前のお酒を飲もうとするのかと言えば、それはアルコール中毒だからだと答えることができる。もう一つは内から答えること、つまりはしようとする「理由」である。アルコール依存症の当人にとってみれば、目の前のお酒を飲もうとするのは、ただ飲みたいからでしかないはずである。

 

 

原因

原因とは常に外から分析されるものである。そのベースの問い方は「なぜそのことが起きたのか」であり、要は全てを現象として捉えているのである。今のこの現象を引き起こしたのは他のどの現象によってか、因と果の関係でとにかく探っていく。その世界には人間の意志というものは全く出てこない。意志さえも常に何かの別の因が引き起こしているのだと考えられてしまうからだ。全ては自然そのものであり、人間もその内の一つに過ぎない。現象の大きな流れの中で個々が存在していようが、やはりは流れの中である。人間も流れによって解される存在に過ぎないということだ。

 

 

理由

理由とは常に内から自分自身で選びとるものである。目の前のお酒を飲みたいのは、お酒の味が好きだから、お酒に浸っていると心地よいから、お酒がないと辛いから、など色々考えられる。或いはもっと関連が薄いような、今日の天気が良かったから、星座占いで最下位だったから、好きな漫画の新刊が出たから、とかでも全く構わない。理由というものは本人さえしっくり来ていれば、それだけで理由足り得るのである。他人から見て理由になるかどうかというのは関係ない。他人からどう見えようと、本人が理由だと思えれば理由なのである。逆に他人がいくら理由だと思えようとも、本人がそう思えないのなら、それは理由にはなり得ない。

 

 

共存可

普通に生きていたら「自分は本当は〇〇が原因で、それをしたくなっているだけではないか、それはしっかりと自分なりに理由があるような確固たる意志によってしたいのではないのではないか」という不安が襲ってくることはままあると思う。でも「本当は」なんてのはないのだ。原因と理由は別々の世界にあって、両方同時に存在していても別に矛盾するものではないからである。どちらかが本当でどちらかが偽物だということは全くない。どんなにふわふわした理由でも、自分がその理由で何かをしたいと思ったのなら、仮にそこに原因があろうとなかろうと、そしてどんな原因があろうとも、依然その理由はきちんと意志を支える立派な理由なのである。

f:id:kabiru8731:20221031064728j:image