底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分だけは大丈夫と信じながらもできることはしておこう

無根拠な信仰

どれだけ平和な国や時代においても事故や事件というのは毎日どこかで起きている。どれだけ医療や科学が発展していても、病気や障害などはやはりなくなるものではない。今、平穏と健康を持って生きられている人は、本人の意識や努力など以前に、偏にたまたま運に恵まれているにすぎない。まさに明日は我が身なのであって、自分や自分の周りだけは大丈夫なんて保証はどこにもない。その事実はみんな分かっているはずだ。分かっているけれど、それでも平穏と健康が無根拠に明日も続くと信じ、当たり前な前提として日常を送っている。

 

 

自分だけは大丈夫?

ひとつにはそれはやはり仕方ないというのがあるだろう。その事実があるからといって、だから毎日家に引きこもって何もしないというわけにはいかない。遭う時は遭うのだし、なる時はなるのである。それはまさに運なのであって、決して避けられるものではない。しかし、そうした現実をきちんと見つめている人は少数派だろうと思う。多くの人はやはり「自分だけは大丈夫」などと薄々考えているのではないだろうか。絶対的に確信はしていなくとも、まぁそんなに運が悪いわけじゃないし、普通に生きていたら普通の生活を送れるでしょ。少なくとも「送れるべきだ」くらいには思っている。

 

 

自分だけは大丈夫と思うのは大事

人は誰しも自己愛を持っている。自分自身は大事であるし、また大事にされるべきだと考える。無根拠な平穏と健康への信仰は、この自己愛に支えられてあるのだと言える。自分だけは大丈夫であるし、そうあるべきだと思うから私たちは今日も平気な顔をして、生きていけるのである。そして、その思いこそが人の日常や社会というものを成り立たせているのは疑いようもない。が、しかし、それはやはりどこまでも無根拠である。明日にでも自分は大丈夫じゃなくなるかもしれない。認識としては依然こちらが正しい。

 

 

できることはしておいた方がいい

無根拠に信じることは悪いことではない。むしろそれがなければ人はまともに生きていけないのだから。しかし、できることはしておくべきなのだと思う。ずばり覚悟と対策の二つだ。そうなった時にそれでも前を向いて生きていくにはどういう心構えでいたらよいのか、何があったら自分はその心構えを保っていけるのか。考えておくに越したことはない。そうならないと信じるのも、そうならないようにと考えるのも限界がある。大事なのはそうなった時にどうするか、だ。こんなはずじゃなかった。どうして自分が。などとその時に思っても、もう遅いのである。

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