堂々と書く話じゃないな
前にもどこかで書いた気がするが、私は就活というものをしていない。その理由は単純に働きたくなかったからだ。働きたくないのに、その書類の準備やら面接の練習やらをする気力がどうしても湧かなかった。働いてくれって社会の方からお願いされるならまだしも、こっちから出向いて篩にかけられに行くとか、いやいや無理無理。そんな贅沢な暮らしがしたいわけでもないし、なんなら普通の暮らしも別にいらない、最低限生きていけるくらいのお金があればいいから、と考えていたので、そのまま大学を出たのだ。親には申し訳ないことをしたなぁと思いつつ、それでも私の人生だしなぁと思いつつ。
社会ってなんだ
それから四年経った今、私は普通に働いている。これもどこかで書いた気がするが、一緒に働かないかと誘われたからだ。今の仕事は別に好きでも嫌いでもない。働くことは、やはり私にとってお金を得る手段でしかない。もし働かずに同じ金額のお金が貰えるなら、確実に働いていない。今いる会社の更なる発展や拡大にも何の興味もない。私はただ私のやるべきことをやるだけ。そんな感じだから、未だに所謂社会というものには距離を感じていて、それがどんなものであるのかよく分かっていない。傍から見れば自分だって立派な(?)社会人の一人であるはずなのに。
社会人って誰のこと
そもそも社会人がどんな人々を指しているのかもよく分からない。なんとなくの雰囲気では、ともかく労働をしてその対価にお金を貰っている人という感じはあるが、なぜそうなのかもよく分からない。社会に参加する形って色々あるのだから、その意味ではそもそも社会人でない人はいないはず、と私なんかは思ってしまう。一人で生きていける人など絶対にいないのだから、衣服を着ている限り、飲食をする限り、必ずどこかでは社会に関わっているはずだ。少しでも接触さえしているのなら、それはもう社会の人、社会人ということではないのか。消費することだって立派な社会貢献だし、家族やインターネット上にしか関わりがなくとも、やはりそれも社会の輪の中である。働くことも、消費や地域活動などと同じで社会と関わる一つの方法に過ぎない。そこに特別さは何もない。働く人がいるから社会が回るという言い方をするなら、消費する側にだって全く同じことが言えるだろう。
社会不適合…?
社会不適合者という言葉を見かける度思う。適合できないのは、社会がまだその人のあり方に対応できていないというだけであって、適合できない方の問題ではない。それなのにどうして適合できない側が烙印を押されなければならないのだろうか。人間非対応社会と呼ぶ方がよっぽどしっくり来る。誰一人あぶれることなく全ての人を包括してこそ社会は社会である。社会の外に人はいないのだから、人である限り本当は誰しもが立派な社会人であるはずだろう。