底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分とこの人間の関係

1

自分はこの人間ではないという事実は気を抜くとすぐに忘れ去られてしまう。他人が私をこの人間として扱うから、私もすぐに乗せられて自分がこの人間である振りをしてしまう。何度も繰り返すと、もはや振りは振りではなくなって、私は最初からこの人間だったということになっていく。この人間でないとは何を言っているのか、もうその言葉さえ馬鹿馬鹿しく思える。だけど、これはただの事実であろう。人生の最初を思い出して欲しい。自分はこの人間として生まれたのだろうか。違うはずだ。ある時から突如この人間が私だということに「されていた」のだ。それまで私は誰でもなかったし、なんでもなかった。

 

 

2

自分の名前はなぜ自分の名前なのか。答えは簡単ですね。その名前をつけられた人間が自分だからだ。つまり、その名前をつけられた人間が自分でなければ、その名前は自分の名前ではなかった。当たり前のことですね。Aという名前をもつ人間が自分であるかどうかで、自分の名前がAであるかどうかは決まる。どんな名前を持っていても、「その名前だからそいつは私だ」なんてことにはならならない。必ず「そいつが私だからそいつにつけられた名前は私の名前だ」の順序である。

 

 

3

私が普段この人間を「やっている」だけで、この人間は私ではない。現実的には不可分でも、論理の上ではキッパリと分かれている。このことは本当によく忘れ去られる。気を抜くとすぐに、この人間の持つ思いやら属性やらに本気で思い悩んでしまう。本気で思い悩んでいるのもこの人間であって私ではないのに。自分がこの人間とされるのは、私がこの人間を通してでしか世界と関われないからだ。他人はこの人間であるところの私しか認識できない。しかしそれはやはり他人の都合だ。事実としては、この人間の持つ何かと自分の間にはいかなる必然もない。私はこの人間でなくても全然良かったし、なんなら存在しなくても良かった。

 

 

4

自分はこの人間ではないが、この人間が快適に暮らせないと自分に少しばかり支障があるので、私はこの人間の快や幸せを考える。私にとって幸せとはその程度のものだ。自分をこの人間だと思い込めば思い込むほど、人生はグッと難易度が上がるような気がする。この人間の幸せがそのまま自分の生きる意味だ、なんてところまで来てしまうと、 不幸はもう自分の生きる意味の消失になるので、もうなんとしてでも幸せにならなきゃいけなくなる。幸不幸なんてほとんど運でしかないものに、人生の全てが左右されていく。とても不幸なことですね。

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