底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

「今」という不思議について

1

突然ですが「今」と頭の中で唱えてみましょう。すると唱えられた「今」は瞬時に過去となり、「先程今と唱えた」という記憶としてしか、もうここにはないですね。「今」と唱えた時の今は既に世界のどこにもなく、一瞬で記憶の中に眠る過去となり果てたわけです。今とはそれほどまでに脆く儚いもののわけですが、しかし今度は「今今今…」と連続で何度も唱えてみましょう。すると自分が唱えようとする限りで、今が続くと分かりますね。唱えるのをやめれば瞬時にその今は過去に変わりますが、唱える続ける限り、今は永遠に存在し、そもそも今しか存在していないと気づくことになります。

 

 

2

時間とはやはり誠に奇妙なものであって、その中で自分が生きていると考えると、時々頭がパンクしそうになります。例えば私は今27歳ですが、私には27年間分の記憶など全然ありません。ただ公的な証明書や周りの人・環境との辻褄、あと以前は26歳だったという記憶の続きとして、なんとなく自分を27歳であると思っているだけに過ぎません。 もし私が、自分が27年間も生きたことは本当なのかと疑おうとすればいくらでも疑えてしまうわけで、本当は27年間など生きていなくて、ただそういう環境や記憶が「今」突如として与えられただけかもしれないと想定してみることだって大いに可能なのです。そんなのは馬鹿馬鹿しい想定だ、と思いましたか?でも恐ろしいことにそれを反証する論理はありません。誰にとっても過去は記憶の中ですし、世界が突如として今のような形で存在することは全くもってあり得ることだからです。

 

 

3

生活の中で誰もそんなことを本気にしたりしないのは、人がそれをあり得ないことだとはっきり分かっているからですね。でもなぜそれを分かることができるのかと考えてみると、途端に足元はぐらつき、そこには確固たる根拠などないと気づいてしまうことになります。私たちの日常は、得てしてそんな不安定で不可思議な足場の上に成り立っているのです。

 

 

4

「今」のない世界を想像してみましょう。ただ年表的に世界が存在し、時間に固定な視点がない世界は想像できるでしょうか。うーん、無理ですね。どう想定しても、その視点を拭うことはできません。世界は「今」からしか開かれていない。今のない世界などそもそも何を言っているのか理解さえできません。しかしその拭うことのできない「今」はどこにおいても想像可能ですね?それが紀元前だろうが794年だろうが2024年だろうが8543年だろうが、年の内容がどうであるかは置いとくとして、今は任意の時点に合わせることができます。ではなぜ今は2024年なのですか。2024年の今と他の今は何が違がいますか。なぜ2024年だけが本当に今なのでしょうか?

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