底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なぜ人に何かを伝えられるのか分からない

結局雨やったわ…

今日も雨は降っていなさそうだ。まだカーテンを開けていないので天気がわからないが、とりあえず雨の音は聞こえない。昨日も相変わらず眠れなくてついには朝の8時に眠る始末、今日仕事休みでよかった。さて4日目のブログを迎えられた。3日坊主にならなくて済んだことを喜ぼう。

 

 

需要どこ

3回書いてきて思ったのだがこのブログ本当にこれから需要が生まれるのだろうか、不安でしかない。ブログを始めた以上はやっぱり誰かには見てもらいたいと思っているのだが、なんせ狙っているターゲットなどというものはこのブログにはないので、需要層はどこなのか全然イメージがつかない。それでもどこかしらにはいるだろうという希望的観測のもとに書いている。もちろん読者の有無以前に書くこと自体が楽しいというのがブログをやっている大きな理由ではある。

 

 

言葉を書く難しさ

言葉を書くというのは簡単なようでとても難しい。少なくとも伝えたいことを正確に書くというのはとても技術のいることである。日常におけるメッセージのやりとりなどではあまり意識されないが、学術的な文章をみてみるとその難易度がはっきり分かるだろう。論文などがあれほど難解になってしまうのはおそらく微妙な定義の違いでどんどん新しい言葉を生み出すしかないからであろう。

 

 

伝わると伝達の違い

考えてみると「伝わる」ということはとても不思議だ。伝わるとはなんだろう?例えば情報みたいな客観的な視点があるもの、つまり私やあなたが主語として登場する必要のないものなら伝わるという言葉の意味はよく分かる。それは伝達ということなのだろうから。レコーダーで録音して、別の場所で再生されるというそれだけの事である。

 

 

伝わることの不思議

しかし、心情などを伝える時はただ伝達すればよいのでは無い、レコーダーが再生されて音声が聞く人の耳に入るのは前提として、それ以上の何か切実さというか、自分が生で感じている感覚みたいなものを伝えたいのだろう。この時の「伝わる」の意味をとても不思議に感じる。

 

 

他人を理解する方法は2種類しかない

他人は他人であるというそのことにおいて、私が感じていることを感じる事はできない。それが他人の定義なのだから。よってその感覚を伝えることは不可能である。なぜなら他でもない「私」が感じているのだ!と言ってみても、その「私」は他人にとっては他人でしかないからである。私が感じている切実性は、他人自身の(私とは違う)切実性に変換されて理解されるか、あなたにとっては切実なのねという情報として理解されるかの2パターンでしか伝わらない。他でもない私が感じているのだ!という最重要事項は絶対に伝えられないようにできているのである。

 

 

なんでかわからないが伝わる

しかし他人に心情が正確に伝わることなどありえないにも関わらず、日常では他人の気持ちを確信する時や、逆に他人が分かってくれたと思う瞬間は多々あるだろう。なぜ伝わるのか少しも分からないのに、伝わっていることだけはハッキリ分かる。これが「伝わる」ということの不思議であり、そして奇跡である。

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