底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きる理由は死ぬ理由がないから

今日の天気は…

やっと仕事がおやすみなので、昨日からはしゃいでネットカフェで始発まで過ごしてしまった。朝家に帰る時は晴れていたのに、起きたらすっかり曇っている。なんなら雨が降っている。変わりやすい天気だこと。夏本番はいつくるのやら。

 

 

サイゼリヤは神 異論は認めない

今日はサイゼリヤからミラノ風ドリア300円を食べなら文章をお届けしています。懐に優しすぎて、もはや慈善活動の域だろ。私の時給が1000円なので、その3分の1、つまりは20分働けば食べられる!1ヶ月でたったの30時間働けば、毎日朝昼晩、自分で作る必要もなく、なおかつとても美味な食事にありつけるのだ。なんと素晴らしい。

 

 

家事が苦行すぎる

私は料理というものが大の苦手だ。いや料理だけに留まらない。生きる上で必要な家事全部苦手である。やりたい!と思ったことは人生で一度たりともない。やらなくて済むなら全てやりたくない。料理は現にやっていない。毎日スーパーのお惣菜やファミレスの料理ばかり食べている。洗濯は2週間に一度、掃除に関してはもう半年くらいは真面目にやっていない。

 

 

なんの為の生命維持?

生命維持以上のことをする余裕がないのである。オシャレなインテリアを揃えたり、見栄えや味がいい料理を作ったり、いい香りにシーツを洗濯したとしても、その情緒や趣きを味わう精神的余裕が全然ない。生命を維持するためだけにしか生活できない。でも、そしたら私は一体なんのために生命維持をしているのだろう?

 

 

行動基準はその方が苦痛でない

たぶんそこに目的なんかない。強いて言うなら、維持しない方が苦痛だから、今は維持しているだけなのであろう。毎日ご飯を食べるのも、働いているのも、辛うじて眠っているのも、全部「その方が苦痛でない」という極めて消極的な理由によって行われている。飢餓に耐えてまで死ぬ理由はないし、働ける体があるのにそれを活かさずに、社会的にハブかれることに耐える理由もない。

 

 

「私」は奇怪な存在

死ぬ事に労力がいるから生きているだけ、という人生だが、なんだかんだ毎日は普通に楽しい、別に悲しくもない。生活を楽しむ余裕は(懐的にも)ないが、人生を楽しむ余裕はあるようだ。人生というものが奇怪すぎるからかもしれない。生活というものは人間が存在する以上当たり前にあるものだが、私というものの存在は何も当たり前じゃない、少なくとも二十数年前までは当たり前に「いなかった」。そして後百年しないうちに、またその当たり前がやってくる。私がここにあるということは極めて異例である。その異例の「なぜ」を考えることが楽しいのだ。考えるだけだから頭しか使わないし、コスパもいい。思考とサイゼリヤは底辺の味方である。

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