底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

騙されたと思ってやってみる精神

どこからともなく

スマホを握る前は全然書くことなんて頭にないのに、いざ書き始めてみると千字を呆気なく書けてしまう。これまで書いてきた文章は一体私のどこに存在していたのか、少なくとも私自身には全く覚えがない。これが天賦の才というやつか!(違う)

 

 

最初の一歩マジ大事

たぶんこれは人間一般に備わっている能力なのだろう。何かを始めようとしてスタンバったら、たいていのものごとは、その勢いでなんとかなるようになっているのだ。「位置について!」のあの姿勢から走り出すのは容易であるし、今日は疲れていてダルいなと思っていても、いざベッドから身体を起こすと簡単に外にも出かけられるようになる。始める前はこんなのできっこないと思っていた事でも、最初の一歩を踏み出すだけで勝手に道が見えてくる。

 

 

経験と思考はバランスゲー

「やってみなければ分からない」ということは本当にあるのだな、と最近改めて実感している。今までの私はどちらかと言えば、人間的な思考力や想像力の方を信じていた。「全てのことは考えたら分かる」と本気で思っていたから、体験や経験を軽視し、毎日思考を貪るだけの生活を送っていた。私は大事なことを見落としていた、と今なら分かる。思考と想像は「今までの経験や体験」に基づいているということに全く気づいていなかったのだ。だから「やったことないことはやるメリットがない」という粗雑な結論を出しては、様々なことを「自分には必要ない」と一蹴していたのである。

 

 

騙されたと思ってやってみる精神

「騙されたと思ってやてみな?」の言葉に乗せられて、やってみたら本当にやって良かったと思う、という経験は誰にでも結構あるはずなのに、今の自分の能力的に不安なことや、不信感があるものごとを前にするとやっぱり人は「やらない」を選択してしまう。それが出来るかどうか分からないし、やるメリットが今の自分に思いつかないのだから当たり前といえば当たり前なのだが、しかし人間には、そういう自己すら疑うことができる。やった事がないから怖がっているだけかも?と一度は考えてみてもいいはずだ。

 

 

怪しい薬の勧誘とかじゃないからね?

死ぬわけじゃあるまいし、自分が知らないだけかもしれないからやってみようという姿勢は自分の人生を好転させることに大いにつながると思うのだ。やったことがないから自分にできるか分からない、だからやらない、というのはあまりに早計である。やったことがないからこそ、自分にできるかどうか、自分がやって楽しいかどうかは分からないのだから、やってみて判断するのでも遅くないはずだ。知らないことは知らないが故にやってみることでしか判断材料が揃わない。その不信感が真実なのかどうかを確かめるためにも、やってみなければ分からないのである。ほら、騙されたと思ってやってみなよ?

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