底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の上位互換で溢れている世の中

底辺人間記録の名の通り

最近なんだか憂鬱な気分が続いている。少しネガティブになるが、ありのままの思いを記録していこうと思う。

 

 

自分を認められない

世の中私の上位互換で溢れている。私より文章がうまい人、私より思考能力がある人、私より…。あげていけばキリがない。そんな中で私は私の存在価値をどう見出だしたらいいのだろう。「自分がいいと思うならそれでいい」とか「他人と比べない」なんてこと、頭ではわかっているのだが、心は全然追いついてこない。いつも自分より能力がある人を羨んでいるし、他人の言葉や意見を気にしている。そして何よりそんな自分を私は認められていない。だからいつも口先だけでは「自分がいいと思うならそれでいい」なんて言葉を軽々しく吐いている。そうなりたいのに心からそうは思えていないから、虚勢ばかり張っては、時々そんな自分を嫌悪して、とても死にたくなる。

 

 

嫌悪する自分とされる自分

こう思うときは、だいたい人生を誤認しているか何かの事実を見逃している。ただの私の経験論であるが、私的にこれはかなり当たっている。自分に都合の悪い事実を隠蔽し、自分を嫌悪するための環境を自ら作り出しているのである。なぜわざわざ自分を嫌悪するのか、その理由は嫌悪することによって自分が「嫌悪する自分」と「嫌悪される自分」に分かれるからである。つまり嫌悪する方の自分に居座れば、嫌悪される方の自分は自分ではなくなるのだ。自分から、嫌悪される自分を切り離し、叱責する側に回ることは気持ちいいし、端的に楽である。少なくとも嫌悪される自分を受け入れ、それと共に人生を歩むのしかないのだと覚悟するよりは何倍も。

 

 

事実を見つめたい

話を元に戻そう。では、私は今回どんな事実を誤認或いは見逃しているのだろう。今ここで出せる一つの推論は、自分がいいと思うものは端的によいのであり、それは「そもそも」他人の意見では左右され得ない、ということだ。裏を返せば、自分がいいと思っていたのに他人の何気ない一言で気持ちが揺れるなら、それは最初からそんなに自分にとってよいものではなかっただけに過ぎない。私はきっと「いいな」と思う自分をまだ見つけられていない。だからこそ他人にばかり「いいな」という言葉を向けてしまうし、他人の「いいな」や「よくない」に敏感に反応してしまう。そして、そんな自分を「いいな」と思えるはずもないので、自分に「よくない」という烙印を押しては、上ばかり見上げているのだろう。

 

 

よく言えば誇りがある、悪く言えば覚悟がない

私は「いいな」と思える自分をまだ見つけられていないのだろうか?それとも、端的に私には「いいな」と思えるような自分など最初からないのだろうか。どちらであるかは死んでもわからない。後者であると断定して全てを諦められるような覚悟がない私のような人間は結局前者に縋るしか道がないのだろうな。たとえ「本当は」後者なのだとしても。

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