今週のお題「サボる」
サボったものは数知れず、人生そのものすらサボり続けている私についにぴったりなお題がきた。
サボりのポリシー
私はサボるのが大好きである。だがただサボるのは嫌である、サボるならサボるのに適した状況でサボりたい。サボっても誰にも怒られるず、誰にも迷惑をかけず、誰にも咎められないのがいい。なぜなら、その方がめんどくさくないからである。サボるのは得てして楽をするためなのだから、後々面倒を引き起こすと分かっていながらサボるのは本末転倒でしかない。きちんとサボるために、サボる局面をサボらずに見極める、それがサボり上手というものである。
サボり続けて底辺に
二十五年間、私は実にさまざまなことをサボってきた。学業はもちろんのこと、運動、家事、対人関係に至るまで、真面目にやってきたことなんておよそ何一つない。その結果として今立派な底辺なわけだが、それでも全然後悔はしていないし、今もなお、私は様々なことをサボり続けている。人生これ以上落ちることがあるかどうか分からないが、今より悪い状態になってもきっと私は同じことを言うに違いない。なぜなら、人生は私にとって真面目に生きる価値などないからである。
それでも死ぬまでサボる
真面目に生きたところでどうせ死ぬ、だからちゃらんぽらんにいい加減に、人生を嘲笑うかのように死にたい。人に迷惑をかけずにサボりたいと私は言ったが唯一その「人」に含まれない例外がある。それは「未来の自分」である。未来の自分のことだけは私はいつも考えないようにしている。なぜなら、死とはまさに今この瞬間に訪れる可能性があるからだ。未来の自分から人生を逆算するのは、どうにも性にあわない。未来の自分がもし存在するなら、未来の自分で勝手に生きてくれ。こっちはサボるので大忙しなんだから。
サボるのに一苦労
人はついつい真面目に生きてしまうものだから、サボるのだって本当は骨が折れる。今やるべきこと、向き合っているものを一旦隅において、自分のしたいことだけをしよう、なんて口で言うのは簡単だが、その罪悪感に耐えられる人はそうはいない。だんだんと迫ってくる焦燥感や不安感に易々と負けて、いつの間にか自分でも気づかないうちに、また義務処理に手をつけてしまうものである。真剣にサボるには、それ相応の覚悟が必要なのだ。未来の自分を投げ捨ててでも今の自分の快楽をとる!そう決心してこそようやくサボることは成功するのである。簡単にサボれると思ったら大間違い。サボることにだって労力がいるし、心労も伴うのである。