底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人生の価値は自分にしか決められない

卑屈な自分

卑屈な自分というのは手に余る。でも私は結構好き。私の場合、自身の卑屈さと他人から肯定されたいと期待することはセットである。なんというか悲劇のヒロインというのはやっぱり可愛い、ぶってるだけだとしても。自分を幸せにできるのは自分だけと知りながら、それでも誰かに助けて欲しい肯定して欲しい存在ごと包まれたい、そう願わずにはいられない自分は実にめんどくさくて呆れるけれど、人間らしくて微笑ましいと思う。

 

 

その方が生きやすい≠その方が善い人生

精神が安定している方が健康だ、自己肯定感が高い方が幸せだ、性格がいい方が可愛がられる。そういった言論は認める。だが即ちそうである方が「善い」ということは断じて認められない。「その方が生きやすい」とか「その方が生きてて楽しい」といったことを「その方が善い人生である」という風に言い換えるのはやめて頂きたい。不安定な精神や卑屈であること、性格の悪さはいつだって本人の問題で、本人が自らそれらを望む場合だって普通に有り得る。それらがなおされるべき悪いものであるかどうかは本人の価値観に委ねることである。

 

 

価値とされる人≠価値ある人

人の価値を決めるのは何か、それさえも個人の価値観次第である。教養がある人、分を弁えている人、性格が穏やかな人、健康的な精神と肉体を持つ人、他人に気遣える人、思いやりや愛がある人、何かの才能を持つ人、そういった人に価値があると思うのは、単にそういう社会だからである。今こういう時代や場所に生きているから、その人達は価値とされるのであって、狩りや戦争の時代を考えれば、全く違うタイプの人が重宝されるのは明らかである。

 

 

結局最後は個人の価値観次第

〇〇だから自分には価値がないという人は、単にそう自分で決めているだけである。〇〇な人は例外なく価値がないと豪語する人も同様である。「人生に価値はないけど、人は価値を決められる」とはもはや使い古された言葉ではあるが、本当にその通りなのだ。ただ接続詞は「けど」ではなく「だからこそ」である。人生には価値がないからこそ、人は自分の人生の価値を自分で決められる。何を判断基準とし、自分をどう測るかは完全に個人の自由である。価値ある人でありたいなら、クリアすべきは自分の関門である。他人や社会の価値観をいくら突破した所で、それに自分自身が納得しなければ意味がない。

 

 

私の価値観は…

私が人生で目指している価値は「私である」ことである。普通に生きていると人生にはたくさんの「私でない」が紛れ込んでしまう。何となく他人に言われたから、社会がそのようになっているから、そう育てられたから、そのような自分の中に植え付けられている固定観念を一つ一つ解していき、何が私であるのか、私をどう定義したらよいのかを考え抜く。それが私にとっての人生の価値である。私は私のままに存在したい。たとえ卑屈であろうとも。

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