結局意志ってなんなのさ
意志。人間というものの本質が全てこれに由来すると言っでも過言ではない。意志があるから自由があり、自由があるから選択があり、選択があるから責任がある。意志こそが人間と他の動物を決定的に隔てているものであることに疑いの余地はない。しかしそうであるにも関わらず、意志とは何か?という問には未だに全然答えが与えられていない。
時間の性質と意志
ふつう人は自分のことを自由だと信じている。右手をあげようと思えば右手を上げられるし、歩こうと思えば歩ける。自分の意志通りの行動ができることによって自身を自由だと思う。つまり自由とは、何かをすることもできるし、しないこともできるということなのだろう。右手をあげないこともできたが右手をあげた、歩かないこともできたが歩いた、複数の選択肢があることこそ人の自由の根源といえるだろう。だが時間の一回性と不可逆性を考慮に入れるとどうだろう。右手をあげているのと同時に右手をあげないことは当然だができるわけがない。それなら「右手をあげないこともできた」とどうして言えるのだろうか。同じ時に二度立ち返ることは不可能であるのに「他の選択肢もあった」なんて言えるのはおかしいではないか。
意志はどうやって意志されるの?
そもそも右手をあげる‘’前‘’に本当に右手を上げようなんて意志しているのだろうか?少なくとも私にはまったく記憶にない。もしそんなことが行われているなら、その意志の前にも意志が必要なのではないのか?つまり意志しようという意志がなくては、意志するなんてことはできないであろう。だがそれなら更なる意志が必要ではないか…と以下無限に続く。いつまで経っても私は右手をあげられないことになってしまう。
意志がある前提の人間社会
意志の内容を決めるのが更なる意志ではないのなら、一体何に決められているのだろうか。神や脳の物質などの外部に決められている可能性は否めない。だが誰に決められていようと、それが意志という形態のつくりものである限り、本人にとって外部の想定は全く無意味と言える。なぜなら本人は必ず自分が意志したと思うのが意志の定義だからである。ちょうど洗脳されている人がそうであるように。だから外部によって決められているという想定にはあまり意味がないかもしれない。だが凶悪な犯罪行為の意志も実は神や脳の物質によって決められていたと想像してみると、人間社会がいかに不安定であるかは身に染みて実感できるはずだ。
意志なんてあってもなくても日常生活に支障はない
意志を考えれば考えるほどに、本当に存在するのか?と信じられなくなっていく。しかしそれでも日常において私は自分の自由を普通に感じているし、自分の意志で様々のことを決めていると信じている。本来それだけでいいはずなのになんでこんな余計なこと考えたくなってしまうのでしょう。こういう時意志は働いてくれないんですね。