底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人は道具ではないが道具でしかない

道具であるけど道具であるだけ

人は道具だ。人は誰しも他人を利用することでしか生きてはいけない。ただその利用の幅が広いだけである。利用には見えないような利用の仕方があるだけである。どれだけ丁寧に扱っても、どれだけ大切にしていても、それは広義的には結局「そうしたい」という己の欲求を叶えているに過ぎない。欲というものが人間に備え付けである以上、どんなことでも利用の範疇に収まるしかないのだ。しかし、だからといってそれは悲観するようなことでは全然ない。なぜならそこには相互性があるから。道具としてしか扱えないのはお互い様である。自分だけが他人を道具として見ている悪人ではないのだし、他人だけが自分を道具としてこき使っているのでもない。関係性的には平等なのだ。だから利用し合うしか出来ないとしても、平等に基づいた良好な関係を構築していくことは依然可能である。

 

 

人の本来の利用方法

道具の利用方法にもいい利用方法と悪い利用方法がある。それは道具本来の使い方であるかどうかが基準だろう。本来の使い方をしていればいい利用方法に違いないのだし、用途を守らない使い方は悪い利用方法に決まっているのだから。では人の場合の本来の使い方とはなんだろう。人が使われるために生まれてきたのでないのは自明なことだ。ハサミや椅子のような目的が存在に先立っているものとは違って、人はその存在が全てに先立っている。原因や理由や目的よりも今ここに存在しているというそのことがまず何よりも重要な事実なのである。だとするとその本来の使い方は一つしかないであろう。つまりは「人は使われるために存在しているのではない」と意識して使うことだ。

 

 

お互いに

道具として使われるために存在しているわけではないのに、そうであるにも関わらず利用させてくれた他人がいたのなら、それには十分な感謝を示さなくてはいけないし、そうであるにも関わらず、他人にたくさん自分を利用させたのなら、それには十分な労りを施さなくてはいけない。それだけの簡単な話である。お互いに道具ではないのに、お互いに道具として利用するしかないのなら、お互い道具ではないように道具として利用し合うしかないであろう。人は道具ではない。これはただの綺麗事だ。人は他人にとってはどこまでも道具なのである。道具であるけれど、道具として生まれてきたのではないというのがより正確だ。だからこそ、道具ではないように意識して扱わなければならないのだし、道具として利用する時には必ずそこに謝意を持たなければいけないのである。

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