底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自己を知らなきゃなんも始まらん

自己を知らなきゃなんも始まらん

全ては後悔しない生と死のため、ずっと掲げてきたこの目標に最近やっと少し具体的なやるべきことを思いついた。まぁ今までずっとやってきたことであるけれど、やはりそれは自己を知る以外にはないなと改めて腑に落ちたのだ。死や意志や他のあらゆるものは、自己が確定してから問題になるものなのだから、一番最初にやるべきことは自己とは何かと知ることであろう。「何が」死ぬのか、「何の」意志なのか、それを知らずして、他の問を掲げても結局あまり意味がないのではないだろうか。

 

 

自己を知るとは何を知るすることなのか

自己を知る。それは自分という一人の人間に対してだけ研究することではない。同様に自我や自己といった一般的な概念のみを学ぶことでもない。ここでの自己は仮の名前に過ぎない。まさにその自己とは何かがわからないからこそ、知ろうするのであるから、明確な対象はここにはないのである。自己を知るとは何をすることなのかは、はっきりしていない。ただ自己っぽいもの、一見自己に思えるものというのはこの世に数えきれないほど存在するので、強いて言うなら、それらが本当に自己であるのかを確かめることが自己を知ることの唯一の術なのかもしれない。

 

 

魂=自己の謎

魂という言葉をなぜかは知らんが近頃よく目にすることがある。この言葉は、なんというか、自己というものは身体でもなく精神でもないことを想像させる。そのものの有無や真偽は抜きにして、あくまで言葉のイメージの話である。自己には何か固有の内容があり、それが魂にはあるのだと言いたげな雰囲気を感じないだろうか。その意味で魂とはとても便利な言葉である。自己という謎を言い換えただけの言葉にも関わらず、そこには一気に神秘的なニュアンスが生まれるのだ。

 

 

死ぬまでに少しでも分かれば人間冥利に尽きる

自己を紐解くにあたって、主に二つの方向から考える必要があるように思う。一つは自己の形式、問いの形で言うなら「自己が存在するとはいかなることか」である。この世には沢山の人間が存在していて、誰しも普通に自我があるのに他の人は皆他人で、この人だけが私である理由はなんなのか。その違いは一体どこから生じているのか。それを問うのが形式の問である。二つ目は自己の内容、こちらも問の形に直すなら「自己とは何か」である。他の人と私の違いの理由が分かっても、それだけで私が存在できるわけではない。形式の中で最低限どんな内容を持てば、私は私になり得るか、それが内容の問である。自己を知るためにはこの二つとも知り得なくてはならないだろう。うーん死ぬまでにできる気がしねぇな。

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