底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

こっちのぶどうの方が美味しいよと言い続けるためにブログを書いている

変態ですね

自分のブログ記事を一つ売るならいくらの値段をつけるだろうかと考えてみた。結論は早くて、瞬時にゼロだなと思った。こういうところが私のダメなところなんだろうな。自分の記事はたいそう好きなのに、それが他人にとって価値があるとはとても信じられない。信じられないのにネットに書いて誰かに読んでもらいたい。つまりは他人の前で自己満足がしたいだけなのだ。他人に向かって私は自己満足していますよと叫びたいのである。なんだ、その変な欲求。変態かよ。

 

 

満足が遠ざかっている

つまるところ本当には満足していないのが原因なのだろう。このブログの最初の記事は、人生の不足を補うためにこれから書くということをしていきたい、といった内容だった。そこから全く変わっていない。むしろなんだか始めた当初よりも一層満足から遠ざかったような気がする。毎日記事を一つ書くということによって確実に満たされていた何かが、この頃はうまく機能していない。本当にそれだけでいいのかい?という声がよく聞こえてくるようになった。

 

 

不満の元栓を閉められない

書くこと、いや書いて人に見せることは私にとって不満を発散させる行為なのだと思う。不満をいくらぶちまけたところで満足しないのは自明なことだ。タプタプの水をいくらバケツで掬って外に出したところで水の出処を抑えなければ、根本的解決にはなり得ない。大事なのは不満の元栓を閉めることだ。じゃあ私にとっての不満の元栓は何?決まっている。そんなのブログ名にある通り底辺であることに決まっている。底辺から這い上がれない自分から目を背けるために始めたのがこのブログだ。這い上がった先に私の本当の満足があるに違いない。違いないのだけど違うと言いたい。だって届かないのだもの。酸っぱくて美味しくないぶどうなんだということにするしかないじゃない。そうしないと自分を保てやしないんだから。

 

 

歪なままで

だから、私は終わりのない自己正当化に走り始めた。自分の手の届かないあのぶどうは酸っぱいのだと思い続けるために、こっちの私の手元にあるぶどうこそ美味しいのだという記事を書き続けてきた。ネットに載せる意味もそういうところにある。自分ではどうしてももう負け惜しみだってはっきり分かるから、せめて他人の目にはそうじゃないように映りたかったのだろう。この人は本当にこっちのぶどうを美味しく感じて自分からこっちを選んでいるんだな〜というように思ってもらいたかったんじゃないかな。まぁこんな記事を書いてしまったらもう無理なんですけどね。というか、それ以前にとっくにバレているような気もしなくもない。このブログはやはり酷く歪だと思う。でも歪なままこれからも続いていくのだと思う。

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